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ネイティブティーチャーと能天気女子高生のバトルはもう始まっている [高校と女子高生]

イマココデワラウナンテ、ヘンデス!アナタタチハ、ヘンデス!つまるところ、今日の記事はそういうことだ。

ご存じのとおり、日本中の学校でネイティブが英語の先生をしている。文部科学省や学校の思惑とは別に、授業風景はじつに様々な様相を見せている。授業が終わった後でもティーチャーに親しげに英語で話しかける教え子もいれば、授業中はチンプンカンプンな様子で授業が終わるとティーチャーには目もくれずに友達と話し込む教え子もいる。ティーチャーだって色々だ。チンプンカンプンの教え子にたいしては我関せずタイプから激怒タイプまで。

昨日も電車に乗っていたら、すぐ近くで女子高生が話していた。今日もいつものようにティーチャーは生徒の状態に激怒したそうだ。しかし今日はあまりに怒りのボルテージが高かったらしい。いつもなら日本語で「アナタタチハ、ドウシテワカラナインデスカ!」と怒るのに、今日は全部英語でペラペラとまくしたてた。生徒達はティーチャーが何言ってるのかわかんない。ただその様子がおかしかったから笑った。するとティーチャーは「イマココデワラウナンテ、ヘンデス!アナタタチハ、ヘンデス!」とここだけ日本語で言って、それからまた英語でまくしたてた。一人の生徒が気を利かせて言った。「みんなは先生の言っていることがわからないんです。」するとティーチャーはひとこと「Sorry.」と言って、それから「アナタタチハ・・・」と今度は日本語で怒り始めた。その様子を私の近くで女子高生が面白そうに話す。

お上が何かすれば日本中があらぬ方へ動く。上の思惑と下の反応はいつだってちぐはぐだ。ゴンベが種まきゃカラスがほじくる。ネイティブティーチャーと能天気女子高生のバトルはもう始まっている。熱いぜ!

高校と女子高生(記事の見かた) [高校と女子高生]

高校と女子高生の記事は連載形式です。

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今までの目次

個人的な思い出
高校と女子高生(5) 女子高生について
高校と女子高生(4) 女子高生について
高校と女子高生(3) 女子高生について
高校と女子高生(2) 高校について
高校と女子高生(1) 高校について

記事は大別して高校と女子高生に分かれています。(1)と(2)は高校という職場についてです。


個人的な思い出 [高校と女子高生]

そういえば、こんな女子高生がいた。その年、最初の授業時間にサービスでビデオを見せ、次の時間は教科書を進めるからビデオは見せなかった。生徒たちは毎回ビデオが見られると思い込んだらしく、ビデオをせがんだ。いちばん手前に座ったその子は「ビデオ~」と元気に幼く声を上げて主張した。その元気な声に、その子が授業中のムードメーカーになってくれそうで私は期待した。そんなに見たいなら時々ビデオコーナーを作ってやろうと思った。でもその子は学校に来なくなった。聞いた話では、必修の授業について行けなくなり悩んでいるらしかった。私は心配したが、非常勤で自分の担当授業の時だけ出勤する私に出来ることは何もなかった。ある日仕事を終えて帰る途中、偶然にもその子に出会った。私は何か元気づけるつもりで声をかけた。相手は私のことを覚えてはいたが、無関心に挨拶して通り過ぎた。また元気に学校に来てほしい、またビデオを見せてやりたいという私の思いは、とっくの昔に空回りしていたようだ。その子はそのまま退学した。

そういえば、こんな女子高生がいた。よく勉強する子だった。教えたことをよく理解する子だった。こういう子には大学でも頑張ってほしいと思った。こういう子は大学でも教えたいものだと思った。三年三学期の授業がすべて終わった後、校門の守衛さんに元気に挨拶して走り出て行くのを見た。それが最後だった。同じ学校法人の大学へは来なかった。出来のいい子は他の良い大学へ行ってしまう。その現実が残念でならなかった。

そういえば、こんな女子高生がいた。いつも何かのアイテムを持ってきた。当時キリンビバレッジのエコパンダがテレビのCMで面白かったが、その子はエコパンダを持っていた。お母さんがもらってきたが自分は興味ない、と言っていたが、その割には気に入っているようだった。授業中にはよく私の言葉に反応してくれた。授業では私の目を見てハキハキ喋ったが、授業が終わってから私がエコパンダを見せてもらいに行くと俯いてしまう子だった。いわゆる典型的な授業のムードメーカーになってくれた。高校を卒業したら大学でも会えるだろうが、さすがに大学生になったらエコパンダは持ってこないだろうと思っていた。翌年、大学では見かけなかった。今どうしているのか、まったく知らない。


高校と女子高生(5) 女子高生について [高校と女子高生]

(高校と女子高生(4)から続く)
昔の人ほど真面目で勤勉だ。「今日の辛抱明日の幸福。努力、努力、また努力」という言葉をご存じだろうか。これは、私の親の年代の人間が考えてきたことだ。この考えに忠実に生きれば、毎日が努力だけで成り立つことになる。毎日「明日は幸福だ」と考えつつ、毎日努力し、気がつけば今日が死ぬ日だ。思えば人生は努力だけで終わったなあ、ということになる。毎日仕事だけに終始して、定年になって気がつけば人生は仕事だけだった、それも終わった、というサラリーマンと妙に重なって見える。こういう昔の人は、私の考えでは、人生のどこかを必ず遊びの要素が支えている女子高生の対極に位置するものだ。私は、同年代の女性の生き方すら退屈に感じるようになった。同年代の女性と話すと、まるで温室の中にいるようにぬくぬくとして、刺激がない。いっぽう女子高生と話すと、つねに刺激の連続だ。それは私の人生とは異質のもので、私のようなオジサンが会話について行くことは不可能なのだが、それでも若者の生き方という刺激を知ってしまったら、退屈な世界には戻れない。

女子大生にも同様の傾向は見られる。ただ、大人になった分だけ高校生よりも控えめかもしれないが。女子大生の場合も、何らかのアイテムを使うと容易に面白くなる。ある学生はヴァイオリンを持ってきた。周りにいたヴァイオリン未経験者の友達たちが弾かせてもらって「おもしろーい」と言っていた。彼女たちがやると、何をやっても楽しそうだ。それを文字であなたに伝える手腕が私にないことが悔やまれる。アイテムがなくても楽しい。ある時、私は理容室で耳の上と後ろをサッパリと刈り上げてもらったのだが、わかっていたこととはいえ、ずいぶんとまた刈り上がってしまった。その状態で学校の教室に入るとひとりの学生が「先生髪切りましたね。」「うん、床屋で刈り上げちゃっていいですって言ったら、こんなになっちゃった。」私が後ろを向いた瞬間すかさず3人の女子学生が
「刈り上がってる!」
「刈り上がってる!」
「刈り上がってる!」
こんなどうでもいい言葉が、彼女たちが喋るとどうしてこんなに面白いんだろう。またある時は、授業前にひとりの女子学生が友達に話していた。「でね、その学校では体育の時必ずブルマーをはかなきゃいけないことになっててね、それがみんなにチョー嫌われてね、みんなやめちゃったんだって(笑)。」同じことをオジサンが喋ったらエロオヤジと思われかねないのに、女子大生が喋るとどうしてこんなに面白いんだろう。

今でも覚えている。私の大学生時代に、私が好きだった女の子が、「楽しいことがあれば生きてゆけそうな気がする」と書いた。当時の私はガチガチの糞真面目人間だったから、楽しければ生きられるという発想がまったく理解できなかった。でも今ならわかる。非常勤講師を取り巻く学校法人の実情は、もはやとても人がまともな精神状態で生きてゆける状態ではない。私も残念ながら精神をやられた。それでもたったひとつ、昔と変わらないものがある。それが教え子だ。教え子がいれば教師は生きてゆけそうな気がする。


高校と女子高生(4) 女子高生について [高校と女子高生]

(高校と女子高生(3)から続く)
閑話休題。得たものの2つ目に移ろう。2つ目のものは、女子大生からも得られるが女子高生のほうがもっと得られる。それは、人生の生き方だ。彼女たちは、じつに面白そうに生きている。ただ世間話をしているだけでも面白そうに話すが、何らかのアイテムを使うとすごく面白そうだ。学校指定のバッグに意味もなくぶら下がるマスコットに始まり、意味もなく犬の形をしたペンケース、意味もなく学校に持ってくる癒し系のビーズ入りクッション。次々に色々なものを持ってきては楽しんでいる。もちろん全部の女子高生がそうではない。教室にいる十数人ないし数十人のうち、限られた生徒だけだ。そういう生徒はクラスのムードメーカーになる。ある年には折鶴が流行った。ひょっとしたら病気で長期欠席中の生徒に千羽鶴を折ったのがきっかけだったかもしれない。その時、折鶴の一部を変形させて、鶴から細い昆虫のような足を2本生やして「鶴虫~」と言って遊んでいる生徒がいた。この鶴虫をいくつも作って、親鶴虫の上に子鶴虫を乗せて遊んでいた。ガニ股の昆虫足が出ているから、乗せると妙な形になって面白い。私が書くと、それがどうしたという書き方になってしまうかもしれないが、当時の私はすごく感心した。魅了された。遊びのセンスに。なんでかって?

私が生まれ育った時代は、日本国民がみんな真面目な時代だった。面白いとか楽しいではなく、真面目と勤勉が美徳とされ、遊びはつねにしいたげられていた。その中で育った私の世代の人間は、やたらと面白みがない。つまらない。真面目だけれども退屈な人間たちだ。私もその一人だし、自分の生き方になんの疑問も感じずに、真面目を美徳と思い込んで生きてきた。でも女子高生に出会って、私は目から鱗が落ちる思いをした。私は女子高生に授業を教えたが、同時に女子高生から生き方を教わった。人間は、遊ぶために存在すると思える一瞬があってもいいじゃないか。真面目すぎる私には、その生き方がうらやましかった。
(つづく)


高校と女子高生(3) 女子高生について [高校と女子高生]

(高校と女子高生(2)から続く)
さて、高校生から得たものは、高校から得たものとはまったく違う。私はそれらを女子高校生から得た。どうして男子高校生でないのか。ひとつには私が勤めていた高校がほとんど女子高状態だったから、もうひとつには男よりも女のほうが思ったことを口にしやすいから、それだけ彼女たちの思っていることを知る機会があった。

得たものは2つある。ひとつずつ書こう。まずひとつめは、同じ女子でも大学生からは得られなかったもの。高校でも教えていた私が、それを得て同僚の大学講師と比べて自分の授業の個性を作り出すことができたもの。それは、教えるということについてだ。教職に就いた当初、私は今回の授業で教えたことは次回の授業ではすでに教え終わったこととして扱えると思っていた。しかしすぐに生徒達から「わかんない」「忘れた」の意思表示があり、私はカルチャーショックに似たものを感じた。前回教えても、今回の授業では忘れているだろうと思って復習から始める。このレベルの低さが、私に懇切丁寧な授業展開を強いた。私はそれをしなければならなかったが、今ではそれが普通になっている。同じことは大学の授業にも当てはまるかもしれないが、いくつもの理由から大学では目立たない。まず、女子大生は女子高生よりも、思ったことをそのまま口にする回数が少ない。それだけ大人になったのであり、それだけ何を考えているかはわからない。それに、大学では高校ほど手取り足取り教えてやらなくても許されてしまうから、質問がなければ先へ行ってしまい、彼女たちが本当はわかっているかどうかが不明なままだ。そして、大学生のほうが理解力があるから、授業中にくどく繰り返さなくても理解している、かもしれない。

いずれにせよ女子高校生の、何でも思ったことを口にしてくれる傾向には助けられた。それだけ授業の方向を修正してゆける。それに、何かを教えようとした時、高校生は大学生よりもそれに飛びついてくる。大学生は大人になった分だけ冷めている。教えていて相手の熱意を感じ、それが自分の中の教師魂に火をつけてくれるのは、そして教師自身が自分を高められるのは、じつは高校生のほうだ。その代償として、数十人のガキとのつきあいはものすごいパワーを消費するので、短時間の仕事を終えるとヘロヘロになっているが。
(つづく)


高校と女子高生(2) 高校について [高校と女子高生]

(高校と女子高生(1)より続く)
学校には長い夏休み、短い冬休み、そして年度間の春休みがある。時間給の非常勤講師にとってはこれらの休みは無給休暇だが、これらのうち春休みは給料をもらえないのに拘束される。というのは、出席不足の生徒のためのレポート依頼、点数不足の生徒のための追試験作成依頼の電話が来る。そして学校によっては追試験監督のために学校へ行かなければならない。具体例を挙げよう。高校3年だけを担当すると授業そのものは2月半ばで終わるが、その後2月ちゅうにひとつの高校の追試、3月に入ってからもうひとつの高校の追試、という具合に飛び石的に仕事が入る。暗黙のうちに自宅待機を要求されているようなものだ。これがもし大学の非常勤ならば、低収入という条件は同じで、2月の初めから3月の終わりまでまるまる休みになる。自宅待機はないから、副収入を得るためにバイトを入れるも、自分の研究のために出かけるも、当人の思うままだ。

もうひとつの不満は、労働の大変さに比べて給料が安いことだ。同じ学校法人の大学と高校を担当すれば、同じ時間にたいして同額の給料が支払われる。ところが実際の授業は、90分の大学の授業よりも45分の高校の授業のほうがはるかに大変だ。高校は時間に几帳面で、しかもたった45分間で完結させねばならず、教え子はガキなので手取り足取り教えねばならず、その間に、そもそもお喋りすることしか考えていない生徒を注意しなければならない。いや、そもそも数十人のガキを相手にするという行為だけで、ものすごいパワーが要る。私はよく思ったものだ、高校の45分授業のために大学の90分授業以上の給金をくれ、と。そうでなければ労働力に釣り合わない。しかし実際には、高校の45分授業は大学の90分授業の半分の給金だ。

以上が、私が高校という職場から得たものだ。すべてをまとめて、一言で表現することができる。高校は、大学よりもずっと厄介な職場だ。
(つづく)


高校と女子高生(1) 高校について [高校と女子高生]

私は以前に高校で非常勤講師をしていた。校長の考えで私の役職が要らなくなり、今ではもう私は高校で教えていない。

私は高校で色々な体験をした。それは今後、年を経るごとに忘れ去ってしまうに違いない。だから今のうちに記録しておこう。

高校での体験は、大別して2種類ある。高校から得たものと、高校生から得たものだ。まずは高校から得たものについて書き残しておく。

高校は、大学よりもずっと厄介な職場だ。時間厳守で始業時間ちょうどに始めねばならず、終業時間ちょうどに終わらねばならない。授業時間はたった45分で、あっという間に終わりの時間になってしまう。大学の90分授業が長すぎると感じるのとは逆に、あまりに短かすぎる。

時間給で働く非常勤講師だというのに、時間外に無給で行う労働が多い。年度始めには年間指導計画書を作成し、年度末には年間指導報告書を作成するが、これをまじめに書くと無給の割に時間を取られる。高校生は大学生のように自己責任で予習復習させることが事実上できない。だからしばしば課題を出し、手取り足取り教えてやらねばならないが、そのためのプリント作りにはかなり時間を取られる。これは自宅で行い、無給だ。年間5回の試験を作成、採点し、平均点を出し、そのたびに欠課回数も数え直して報告する。独自に小テストを行うならばさらに時間を取られる。これらすべて、もちろん無給だ。

しかし時間外労働は、この仕事の性質上、誰もが初めから覚悟していることだ。試験は当然あるだろう、試験を行えば当然採点があるだろう。だから上に長々と書いた割には不満は少ない。むしろ不満は以下の点にある。
(つづく)


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