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歌番組の作業終了まであと少し [人生補完計画]

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どこで歌ってるんですか

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歌と姿がミスマッチ

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ハイスクールララバ・・・いッ!?


長年やってきた「歌番組の録画と歌リスト作り」をやめるという私の決断は、どうやらうまく行きそうだ。テレ東の最後の録画に思いのほか曲が多く、これのリストを作り終えるまでにあと少しかかるが、それが終わったら、私はこの因果な作業から足を洗えるだろう。

私の体はもう老人のように動かないのだから、今までのように無理をしてはいけない。それに、今までに充分色々なものを集めた。もう満足すべきだ。今日の記念に、今までの歌リストの中から面白そうなものを選んでスクリーンショットを作った。それが上の3枚だ。上の3枚を見て私は気づいたことがある。最初は昔懐かしい歌番組のシーンを集めたくて始めた作業が、今ではご覧のとおりに面白いシーンを集めているではないか。当初の目的から逸れた時点で、私はもうこの作業をやめたほうがいい。

本当は作業が全部終わった時点で記念に記事を書くのが正しいのだが、作業終了に先行して記念の記事を書いてしまった。今後歌番組を見ると私はまた未練が出てしまうから、もう歌番組は見ないつもりだ。「そんなに四角四面に考えなくても」とお思いの方は多いだろうが、問題は私の健康なのだ。未練が出て、また作業を始めて、それでまた腰痛になったら、人生が大変だ。

「あなたが聴きたい歌の」を残念ながら視聴終了することにした [人生補完計画]

あなたが聴きたい歌の何時間スペシャルという番組は、前回で20回目だった。初回は2008年、だいたい1年に2回くらいのペースで放送してきた。私はそのほとんどすべてを聴いてきた。ただ聴くだけでなく、録画して自分が気に入った曲がどこにあるかを毎回チェックしメモしてきた。なんでそこまでするかといえば、それははるか昔の後悔が理由だ。

私がまだずっと若かった頃、VHSビデオテープに色々なテレビ番組を録画したが、懐かしの歌謡曲番組だけは録画しなかった。当時の私はこう思っていた。「年月が経って懐かしさが薄れ、思い出も薄れた。今さら昔の映像を録画しても、それは形ばかりだ。」それから何年も経ち、私は昔の歌謡曲を懐かしく思う自分に気づいた。小さい頃のような強い気持ちでないにせよ、年をとっても懐かしいものはある。でも懐かしもうとしても、私のVHSビデオテープに懐かしの歌謡曲はない。後悔してからは懐かしの歌謡曲番組が放送されると録画したが、それ以前に放送されたとても多くの番組を私は録りそこねた。

そんな思いでいた時、「あなたが聴きたい歌の」が始まった。「今度こそは」と私は録画した。そういう経緯があるから、私は人よりも情熱を傾けてこのシリーズを録画した。でも、ただ視聴するのと違い、自分が気に入った曲がどこにあるかを毎回チェックしてメモする作業は疲れる。録画を一時停止したり戻したりしながらメモしなければならない。気に入った曲が60曲あったら、その作業を60回やることになる。足腰が悪くなった私にとって、長時間座ってその作業をするのはリスクが大きかった。だんだんと、「昔の歌謡曲への情熱」と「自分の健康状態」を秤にかけて、作業するかどうかを考えなければならなくなった。1回見逃すようなことがあれば、それをきっかけにして健康上の理由から、気に入った曲のチェックとメモをやめようと思い始めた。曲のチェックとメモをやめるということは、私にとって番組そのものの視聴をやめるということだ。

そして今年、痛恨の1回見逃しが生じた。7月の回だ。私は毎日テレビ番組表を見て、この番組を含めて自分の好きな番組はないかと調べているつもりだが、時として見落としがある。それに加えてちょうど7月の放送時、私は新しく手に入れたスマホが前のスマホと違うことに四苦八苦して、そちらにばかり注意が向いていた。さらに言うことを許していただければ、私はまさか5月の放送の次が7月だとは思っていなかった。とにかく、これが私にとってきっかけとなり、懐かしの歌謡曲番組を録画するのをやめることにした。

厳密には、今までに録りためた録画をまだチェックしていないので、いま手元にある録画までをチェックして終わりにしたい。7月の放送を見逃したのに「録りためた録画がある」とはどういうことかというと、この手の懐かしの歌番組をやるのはTBS系列だけではない。TBSがいちばん多いが、他局でもやる。だから私の手元には未整理の録画がたまってしまう。このチェックが終わるまで、新しい「懐かしの歌番組」が放送されないようにと私は願っている。いままで長年やってきた作業だから、気持ちの整理がつく前に次の放送があると、つい録画してしまいそうだ。録画したら、つい気に入った曲をチェックしメモしてしまいそうだ。

ここまで長々と個人的なことを書いてきたので、この記事の最後に少しくらい何か読者様が気に入りそうなものを出して終わりたい。ただし地デジの放送なので動画が出せない。PCで再生してPrintScreenし、画像を切り抜くくらいしかできない。

TBSの上記番組のほかに他局の歌番組もチェックしていると、複数の映像が手に入る。有名曲だと映像の数も多くなる。私の場合、とくに赤いスイートピーは全部で5つの映像が手に入った。松田聖子の衣装は赤いスイートピーだけで4種類見ることができた。もちろん聖子ちゃんファンの方はもっと膨大な量の映像をお持ちのはず。テレビで懐かしの歌番組をチェックするだけの私は、せいぜいこれくらいというわけだ。少し時間がかかったが、5つの映像からPrintScreenして1枚の絵にしてみた。カラフルで綺麗だ。
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人生補完計画、おわりのはじまり [人生補完計画]

私が「自宅地図」と称して自分の家にある自分のものを全部チェックしてPCに記録しはじめたのが2013年。それと同時に天袋に上げてある書籍から記憶にあるページをデジカメ撮影した。その頃は、「天袋から物を降ろさなくてもほんの少し参照したい程度ならばPCで済ませられるように」という意図で作業していた。

その後、親から今の家を出たいと言われて私は恐れおののいた。なぜ恐れおののくかといえば、引っ越すとすれば家の間取りは今の江戸間ではなく団地サイズ、いま持っている物をすべて持って行くことはできない。多くの物を捨てて行かなければならないからだ。だから私は「可能な限りの情報をPCに収めて、一緒に持って行けるように」と考えた。まずはカセットテープ音声のPC保存から始めた。ところがカセットの外見や音声を保存すればするほど、思い出はそういうデジタルデータの中にあるのではないとわかってきた。カセットケースからカチャカチャと音をたてながらテープを取り出し、ラジカセなどのカセットホルダーに入れる。そういう感触がつまり昔の思い出だ。それがわかると、最初は捨てるためにPC保存していたカセットテープそのものが捨てられなくなった。

しかし時の流れは人を妥協させる。昔の雑誌のPC保存では、実物の紙を見ればデジタルデータにできない紙の質感を思い出すが、しばらくするとそれを忘れ、デジタル化した画像で満足するようになる。

でも厚みのある書籍のスキャン作業は雑誌と違い、本が痛まない程度に開いてスキャンするので綴じ代の近くが非常に歪み、ぼやける。元の本を取っておいて日常的な参照にデジタル化したものを使うには問題ない結果となったが、元の本を捨ててこの家を去るとなると、本を壊してでも綴じ代を完全に開いてスキャンするべきだったかと後悔した。

レコード音声のデジタル化では、音声そのものの保存は自分にできる範囲で最高の結果になったはずだ。しかしレコード自体がカビだらけで、自分の思い出の品がこんなに悪い状態になっていたかと残念な思いだ。もうひとつ残念なことがある。レコードジャケットをデジカメ撮影したが、音声のデジタル化だけで大変な作業だったので、ジャケットのデジカメ撮影はレコードが回っている時間を使って行うしかなかった。レコードを夜再生すれば蛍光灯の光の下で、昼でもカーテンを閉めて作業していればカーテン越しに色のついた光の下で撮影しなければならなかった。つまりこの撮影は当時の私にとって一時的なもので、音声のデジタル化が終わった後でいつの日かゆっくりとジャケットを本格的に撮影するつもりだった。

ところが時が流れ、私は当初の考えをすっかり忘れていた。いつしか私は書籍も、カセットテープも、レコードも、デジタルデータとして保存できたと勘違いしていた。ある日私は、天袋の書籍のおもなページをちゃんとデジカメ撮影してあるか再確認しておこうと思った。そして愕然とした。私はおもなページを撮ったのではなく、一冊につきほんの数ページを撮っただけだった。そういえば、天袋の物を全部降ろして整理するという大変な時にデジカメ撮影したのだった。パラパラとページをめくって思い出のあるページを見つけて撮る以外に、何ができようか。私は、この家を出てゆくことになった時、天袋の書籍の多くを持って行かなければならないと決心した。とてもデジタル化はできない。

デジタル化ができない一番の理由は、私の健康状態だ。上記のさまざまな作業が私の健康を害した。書籍をスキャナやデジカメでデジタル化する作業を始めてから数年の間に、私の足腰は実感できるほど悪くなった。大量の物を作業するには、時を選んではいられない。寒い真冬でも、冷気が這う自室の床に座ってスキャナを動かし続けなければならなかった。足がしびれても、つっても、痛くても、やめるわけに行かなかった。そうしたら、数年後にはまともに動けない足腰になっていた。思い返せば、天袋から全部の物を降ろして整理した2013年には、私はまだその上げ下ろしができる足腰だった。今では、PCの前に座る時間も床に正座して座る時間も自分で管理して短くしないと、足腰が悪くなる。私はもう、同じ作業を繰り返せない。

最近このブログに書いたが、長年使ってきたデジカメがいつの頃からか色合いに不満を感じるようになった。たしか、レコードジャケットを撮影した頃から色合いの問題を感じた。レコードレーベルを撮影すると、実物よりも明るい色になった。それが嫌だった。それを思い出し、私はデジカメ撮影したレコードレーベルを再確認した。そして愕然とした。私はレコードジャケットやレーベルをきちんとデジカメ撮影したと思い込んでいた。ところが実際には、上に書いたように一時的な撮影で、カーテンの緑色が映り込んでいる画像も多数あり、保存用のデジタル化ではなかった。

一方では書籍の膨大な量の未撮影ページや撮り直しが必要なレコードジャケット。他方では深刻な状態にまで悪化した私の足腰。そして今年もついに来る、足腰をこわばらせ悪化させる寒い冬。私は、少なくとも今は、もう何もできないと感じた。

私が今までやってきたことは、意味があるのか。書籍もレコードも、この家と共に捨てて去るにはデジタル化保存が中途半端すぎる。他人が仕事や家庭に頑張る時間さえも費やし、健康を損ねてまでやってきた作業は、意味があったと言えるのだろうか。

いやしかし、対象の価値は個人が決めるしかない。たとえばある人にとって、我が子が何よりも大切だとする。ところが他人にとっては、それはただの子だ。対象の価値は個人が決める。他人や世の中は関係ない。もしも他人や世の中を意識しはじめたら、自分の中での大切さの基準が狂ってゆく。人間とはそういうものなのだ。

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