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第四の生き甲斐を探します245 生き甲斐論(5) [手記さまざま6]

これはよっつめの分類ではなく、前回の分類の続き。前回は金があまり関係ない生き甲斐を探すという結論に至ったが、それは散歩だけではない。

宗教を生き甲斐にするという選択肢もある。無宗教の人が多い日本で宗教という言葉を口に出すと、何か恐いことをたくらんでいる団体さえ思い出されるが、欧米での宗教は第一義としてそういうものではない。例えば私が若い頃に一人でドイツをうろうろしていたら、一人のおばあさんが話しかけてきた。「あなたが遠く離れた外国で生きていたら、お母さんが心配なさるでしょう。そういう時は、お母さんに祈ることを勧めてあげなさい。」おせっかいなおばあさんは、そう言った。そういうのが第一義としての宗教だ。

では、私が宗教を生き甲斐にできるかどうか。もうできない。若い頃の私は、大乗仏教だけでなく小乗仏教の経典も学び、家にキリスト教の人がパンフレットを持って来ても門前払いせずに話を聞いた。でもリストラされて心が荒み、明日は死ぬかもしれないと思い、今の生活しか信じられなくなり、宗教どころではなくなった。最後は転居で生活必需品以外を処分することになり、経典も捨てた。

宗教の他には、未亡人になるという選択肢がある。これは説明が必要だろう。未亡人というと、夫を亡くした妻というイメージがあるが、語源的には「未だ死ねず、未来の死を待ち望む者」だ。だからこの言葉を夫を亡くした女性に使うと、「冗談じゃないわよ! やっと一人になれてこれから夫の遺族年金で楽しく暮らすんだから!」と怒られるはずの言葉なのだ。

未亡人という言葉は、実は私のためにある。さっき私は、若い頃は宗教を学んだと書いた。それが現実社会の中で荒んで駄目になった。私という人間は、若い頃のほうが理想をもち学習し未来を信じていた。年をとって駄目になった。生まれ変わって赤ちゃんになったら、私はまた、ましな人間に戻れる。理想をもち学習し未来を信じる人間に戻れる。私が老後の楽しみとして若い頃の本・カセットテープ・レコードを保管していたのも、若い頃のましな自分を思い出せるからだ。思い出せば、今の駄目な自分が一瞬だけましになれる。その本・カセットテープ・レコードも転居で無くなった。私がましな状態に戻れる方法は、もう未亡人しかない。未亡人という言葉を胸に抱くと、私の中に希望が戻る。