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最後の書籍補完計画 (03) [  昔の本(補完計画)]

まずはSG企画の超人ロックについて簡単に調べておこうと思った。私のいいかげんな記憶ではSG企画の作品は超人ロックシリーズの最初期作品・原点作品に相当すると思っているが、確認はしなければいけない。

調べたところ、やはり超人ロックの第1作は「ニンバスと負の世界」(SG企画本のVOL1に相当)で合っているようだ。この作品は、初めて世に出た時点では劇作集団「作画グループ」の肉筆回覧誌に載っていたという。つまり「作画グループ」のメンバーだけが読めたのか。その後第3作「ジュナンの子」(SG企画本のVOL3に相当)が貸本向け単行本として多くの人が読める形で発行されたということは、それほど第1作第2作を読んだ人の支持が強く、口コミ等で単行本発行の要望が広まっていったことを意味する。

私は第1作がとても興味深かった。ロックが超人であることは後の作と変わりないが、細かい所が後の作品と違うと感じた。私はそれが興味深い。私の勝手な想像では、少なくとも2つの要因で第1作はその後の作とは違う。1つめの要因はもちろん、執筆時期だ。ひとつのキャラクターやひとつの漫画作品が、第1作から不動の基本設定を保持しているとは限らない。作を重ねるごとに基本設定が固まってゆくのはありうることだ。2つめの要因は、「その書物が想定する読者像」。今でこそ超人ロックといえば北は北海道から南は沖縄まで、Amazon.co.jpからja.wikipediaまで、広く知れ渡っている。でも第1作は違った。限られた人が閲覧する肉筆回覧誌に載っていた。これはきっと、同人誌と立場が似ているだろう。同人誌のいい所は、作者が社会・商業の余計なことを気にせずに伸び伸び書けることかもしれない。そんな2つの要因を思いながら、私は第1作「ニンバスと負の世界」を読んだ。そして私なりにとても興味深かった点が2つある。

1つめの点は、「読者への話しかけ」らしきセリフがちらほらと見える点。私の記憶では、SG企画を離れてから神童までの作ではそれがなかったと思う。(神童以降を私は部分的にしか知らないから、それについて私は何も言えない。)まず、「読者への話しかけ」とは何かを説明しなければならない。漫画では多くの場合、1つめのコマが始まった瞬間から、まるで映画のスクリーンの中のように物語は進行する。読者はその世界に没頭し、漫画を描いた漫画家のことを(読者により程度の差はあれ)一時的に忘れる。しかし漫画家が意識的に「何か」を描き込み、没頭する読者を現実へ引き戻す場合もある。もっとも明確な描き込み方は、作者自身をあらわすキャラクターを登場させる方法だ。その場合は、読者は物語世界に没頭するのでなく、(少なくともその作者キャラクターが出てきたシーンでは)それを描いた漫画家の存在も意識しながら読む。超人ロック第1作の場合は、そこまで顕著ではない。でも漫画の世界に没頭していた読者がふと描いた人・聖悠紀氏の存在を思う瞬間がある。それはこういう瞬間だ。ロックは第1作から自分の姿を自在に変えて現れる。それを見て、それがロックだと知った作中人物は驚く。その驚きは読者も同じだ。その時、作中人物が言う。「(ロックにたいして)君は でてくるたびに ちがった かっこうだね 読者が とまどっちゃうだろう」。作中人物は漫画世界の人物だから本の読者を知るはずはないが、聖悠紀氏はあえてこのセリフを作中人物に言わせることで読者を物語世界から引き戻す。

(上の画像の左端が歪んでいるのは、元画像が「本を開いた状態でスキャンしたもの」だから。綴じしろの部分はどうしてもこんなになってしまう。)

似たものはもうひとつある。


そして、私なりにとても興味深かった点の2つめは、ロックに謙虚さがない点。自分のことを「超人ロック」と言っている。ここから先の記述は私のはるか昔の記憶が頼りだから間違っているかもしれないが、その後のロックはもっと謙虚だったと私は思う。自分から超人と名乗ったりしない。何百年も生きているから精神的には老人の域なので、若者のような「カッコいいが向こう見ずな発言」はしない。そういう風になっていったと私は記憶している。


いずれにせよ、私は嬉しい。私はこの、商業誌になるよりも前のロックに会えたことが、そこまで過去に遡ってロックに出会えたことが、とても嬉しい。
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