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intermezzo [非常勤講師外伝]

ブログというのは何か書くべきこと、たとえば事件や出来事があったから書くものだが、今日の記事はここ数カ月のまとめだ。緊急事態や事件の類ではない。その意味で、間奏のようなものと言える。

思えば数年前、急にどの職場でも非常勤のコマ数を減らし始めた。それがある職場では毎年1コマ、別の職場ではある年にまとめてドドンと来たものだったが、それもどうやら一段落のようだ。いくら経費削減のさいに減らしやすい非常勤給与とはいえ、すべての非常勤に公平な基準で減らす以上はまさか「1人1コマ限定」とも言えまい。(実際にはすべての非常勤に完全に公平と言い切れるわけではないが。)コマ数の削減は、これ以上やれば非常勤の間でまた動きが出るという所まで来ている。

今までどんなことを思って生活してきたかは各非常勤で様々だと思う。私の場合は、自分の努力とは何の関係もなく減り続ける収入に苦しむうちに自分が結局根無し草だということを思い知り、将来が見えない生活不安から心と体を壊し、その結果将来の自分ではなく今の壊れた自分を治すのが最優先となった。壊れた自分を治すためには学校にしがみつくことは不可能だった。学校はいつまでも私を非常勤として扱うつもりであり、いつまた給料を減らされるか、あるいは突然解雇されるかわからない。学校にしがみつく限り私は根無し草の半死人だ。心身は壊れる一方だ。

だから学校への依存を抑えて他の方法で生計を立てる道を探さねばならなかった。それで結果を出せるか?ではなく、まず学校を見捨てることで心を治すのだ。欲しいのは高収入ではなく健康だった。私は株を始め、学校で一生懸命1年間働いて得る給料よりも高額の利益を株で得るようになった。でも誤解してはいけない。私が金持ちになったのでなく、素人が株で儲けられるほどの金額すら学校は私に払ってくれないのだ。

こうして私の心身は少しずつ治ってきた。それと時を同じくして、まるでいつまでも減り続けるかに見えた非常勤コマ数の削減が一段落した。すると、どの職場でも私は専任の先生から気遣いの言葉をいただいた。その内容はどれも同じだった。「専任の口があればいいのだけれど、この学校ではそれはない。他校でつてのある所に打診してみたが、今のところは専任の口がない。」私はこれを聞いてぞっとした。やめてくれ。私をここまで苦しめてきた伏魔殿に私を専任として一生幽閉する気か。

そう、他人は私がここ数年でどれだけ苦しんできたかを知らず、その結果学校を見捨てねばならなかったことも知らない。まるで二十年前、未来を信じていつかはここの専任になって学校のために尽くそうと能天気に考えていた頃と同じように私が今でも考えていると思い込んでいる。何という激しいギャップだろう。今では私は専任の方々を気の毒に思っている。たしかに彼らは来年も再来年も働き続けることを約束されているし、非常勤とは比べものにならない高額の給料をもらっている。しかしその代償として、我々をこんなにも苦しめる職場に一生自縛霊のようにつなぎとめられ健康を削り取られるのだ。

私はたしかに金がない。だが、もしもこのまま貧乏なりに生きてゆけたら、自由だけはある。私は職場から与えられた仕事を、職場が求めるように正しくこなし、雇用契約に基いて給料をもらおう。学校と私の関係はそれだけだ。それ以下でも、それ以上でもない。今の私が仕事に精を出すのは、学校のためではない。教え子のためだ。

その教え子について、最後に少し書こう。いつだったか、生徒・学生の質が落ちたとずいぶん言われた時があった。でもあれは間違いだったと今ではわかる。質が落ちたのは大人のほうだった。大人の質が落ち、学校が学校らしくなくなっても、教え子はどの年も立派だった。教師が熱意をもって接すれば、それに応えてくれた。学力低下をそんなに嘆くか?学力が低下したなら我々がそれを救うんだ。彼らはいつだって最低限必要なものを示してくれたじゃないか。教師の熱意に応える意欲を示してくれたじゃないか。なぜそれで満足しない?むしろ学校法人のモラルの低下をもっと危機的に報じるべきだったな。

いま、教え子にまた危機が迫っている。気づいているのは私だけだというのか。そんなことはあるまい。教員免許を取得するのは昔よりもかなり大変になったが、それでも悲しいことに教員に未来があると信じて教員免許を取得する学生はかなりいる。お上は教員を増やそうとしているようだが、どうか学生はよく考えてから決めてほしい。なぜならその学生たちは、私が高給取りだと勘違いしているからだ。教員は高収入で安定した職業だと勘違いしているからだ。私が学食の400円ランチすら食べられずにスーパーで290円のミニ弁当を買い、ペットボトル持参で学校で水を汲んでしのいでいると知ったら、彼らはどう思うだろう。

この前も彼らは勘違いした。私は教師だから、時には教え子を喜ばせる(正確には授業の雰囲気を良くして、やる気にさせる)ために何か買って行くことがある。自分が290円のミニ弁当で我慢しても、教え子に280円の菓子を買うことがある。教え子は能天気にまた買ってもらおうとする。私は自分の懐具合を考えてつい正直に、金欠でそうたびたびは買えないと言ってしまう。すると学生が「またまたぁ~。高給取りのくせに~。」ああ、また出たか勘違い。この時は教育的配慮から真実を話すのは控えたが、私は真実を話したい。そして言いたい。教員になろうとしている人は、よく考えるんだ、と。
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