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リストラ通告で初めて、自分にとって大切でないものを知った [非常勤講師外伝]

「失った時に初めて、何が大切かがわかる」という言葉がある。普通はこれは、大切なものに気づくという意味で使うが、それが大切じゃなかったんだと気づく事もある。今日は最終的にそういう話になる。

先日、リストラの通告があった。大学の非常勤講師として働いている私は、その日、講師控室で授業の準備をしていた。すると事務関係の古株の人が顔をのぞかせて、「ちょっとおいでいただけますか」と言った。この時点でコマ数が減らされるのだとは思ったが、現実は時に人の予想を超えるものだ。狭い談話室に入り、その人が言うには、来年度の新入生が定員の6割しか集まっておらず、学校の経営が厳しい状態になったので、私の雇用契約を本年度までとしたいとの事だった。今までにも色々あったので、コマ数が一度に2コマ減るくらいの事はありうると思っていたが、雇用契約そのものの更新打ち切りは予想していなかった。

私はこれまでに、あの、あらゆる学校で一斉に非常勤のコマ数を減らしだした年以来、色々と経験したり聞き知ったりした。そこで、上の事を言われてショックを受けながらも、瞬時にどの手で行こうかと考えを巡らせた。事情から察して真っ向から抵抗しても心情を吐露して叫んでも解決策にならないと思えた。そして、以前にある職場で行われたらしい団体交渉の結果が頭をかすめた。その手で行く事にした。私は言った。「私は専任の職をもっていないので、この非常勤の職で生計を立てています。突然に雇用を打ち切られると、4月からの生活が成り立ちません。段階的にコマ数を減らす事はできないでしょうか。たとえ1コマでも仕事を残していただければ、私はその間に新しい仕事を探す事ができます。」実際のところ、このご時勢で新しい仕事が見つかるかどうかはわからず、だから実際にはとにかく仕事を探す努力をするという事になる。でも私の戦略で重要なのはそこではない。1コマだけ仕事が残ってもその収入でどうにかなるのかという事も、今回の戦略の重要事ではない。私はその場の話から、どう足掻いても現状では雇用契約の更新を取り付けるのが精一杯だと感じ取っていた。だからそれ以上の高望みをせず、論点を契約更新に絞って死守したいと思った。契約が更新されるのとされないのとでは雲泥の差があるからだ。卑近な例を挙げるならば、仲違いした夫婦やカップルも、その関係を続けている間は将来的に持ち直すかすかな希望があるが、別れてしまえば一縷の望みもなくなる。その考え方だった。先方、つまり事務方の古株は、そういう決定はその人でなく学校の経営陣が決めるので即答は出来ないとの事で、話の続きは後日に引き伸ばされた。

その日のうちに他の人から補足情報が私の耳に入った。この時期に非常勤の契約更新打ち切りの話が出るのは、実際の打ち切りの何ヶ月前までに本人に通告しておけば学校側は法的に責められずに済むという事情があるかららしい。しかしその結果、その何ヶ月前の時点での次年度新入生数の予測に従って学校側は動き、その時点で事態が思わしくないと、仮にその後事態が好転したとしてもそれは関係なく、この時点で早くも非常勤には更新打ち切りの通告が来てしまう。

この学校は小さい。小さいから社会の不景気の煽りもマンモス校より強く受け、何かあると学校自体が社会に振り回されやすいから、その下で働く非常勤はさらに振り回される。ただし、小さいから学校が何を考えているのか、どんな風に必死なのか、どこで馬鹿をやっているか、どこは頑張っているかが伝わってくる。その意味では愛すべき職場なのかもしれない。マンモス校だと、そのへんの動きが見えない。何もないうちはマンモス校のほうが自由に授業を行えるが、ひとたび何かあると、何だか納得できないような理由付きで通告が来たり、先方と話をしたくても話をすべき学校経営陣が通告者のはるか背後に存在して非常勤からまったく見えなかったりする。(それで団体交渉という形が生じるのだな。)

閑話休題。この日の事務方の古株との話は授業前だった。それは良かったのか悪かったのか。悪かったのは、後の授業に集中するのが難しかった事。心の中にはつい先ほどからのショックと不安が渦巻いているのだから。良かったのは、その日に会う人々の顔を見ながら、「この人に会うのも本年度までかもしれない」と思った事だ。いつもならば授業準備の合間に儀礼的に挨拶を交わすだけの人たちも、そろそろ見納めとなると感慨深い。この人はどういう人だったっけ。今までにどんな事があったっけ。もちろん教え子もだ。無意識にも、いつもより親身になって話ができる。

そして改めて思った。ずっと前から思っているように、学校でまともなのは経営陣や講師のような大人ではない。学生たち子供のほうだ。大人には「大人の事情」という全くもって綺麗事でない嫌な事情があり、それに振り回されて経営陣は講師を苦しめ、苦しめられた講師はたとえそうしたくなくても、無意識でも、自分の苦しみの分だけ学生に影響を及ぼす。今日も授業の後で学生数人が話していた。「この学校は先生が悪いんじゃない、学校のシステムが悪いんだ」と。私はこれを聞いてぞっとした。20年も前の学生の中にはこういう問題意識をもつ者もいたが、今どきの学生はもっと能天気だ。その能天気な学生の口からこんな言葉が出るとは、嫌な「大人の事情」が経営陣から講師へ、講師から学生へと漏れ出ている証拠ではないか。こんな学校にした経営陣も講師も、ろくな大人ではない。たとえ医者がこの人は健康ですと言ったとしても、明らかに病気だ。「大人の事情」に振り回され続けた挙句に末期症状にまで至った人間たちだ。以上の理由により、教師が学校のために粉骨砕身、その身を削って働くというのは、間違っている。だからといって、いい加減に働けという意味ではない。問題は、「誰のために粉骨砕身、その身を削って働くか」だ。言うまでもないだろう。教え子のためだ。

教え子、つまり学生たちは、すばらしい。前々からこのブログに書いていると思うが、非常勤講師としての私にとって、いつの時代でも変わらずに愛すべき存在だったものはただひとつ、教え子だった。学校法人は愛するに値しない存在だった。私が私を雇ってくれる学校に感謝しても、学校にどうやって貢献しようかと誠心誠意行動しても、結局学校にとってそれはどうでもよかった。私の誠意を学校が知る事はなく、逆に私が出席カードをばらまいているという嫌疑を私にかけ、経営難になると私に何の落ち度もないのにコマ数を減らし続けた。毎年学生が授業を評価するようになっても、学校は評価の高い授業を目に留めるわけではなかった。学生による授業評価は学校にとって、健全な運営をしていますという外部へのアピールでしかなかった。しかし学校がどんな状態の時も、いつも教え子だけは立派だった。学生による授業評価が始まった頃、実は私は心配だった。学生が正しく授業を評価してくれるだろうか、特定の「悪い」教師の妙な誘惑または圧力で評価を変えてしまうのではないか、と。しかし実際に始まってみると、その心配は無用だった。評価が不当に低いケースは非常に少なく、大抵は学生は授業をよく見ていた。良い所は良いと、悪い所は悪いと、授業の内容が反映する結果が返ってきた。

年配の教授者の中には、そんな教え子をまったく見ていない人もいる。あるマンモス校では、その内部には今でも数十年前と同じバカデミストの空気が渦巻いている。教授たちは口を開くと「今どきの学生は出来が悪い」としか喋れない馬鹿ばかりだ。実際には教え子の出来が良かろうと悪かろうと、それを導き上達させるのが「教師」の役目だ。ところが馬鹿教授は、自分がふんぞり返って言いたい事を言い、それについて来た学生は出来の良い学生、ついて来られなかった学生は悪い学生という頭しかない。それははっきり言って「教師」ではない。自分のレベルを中心に考える事しかできない人、教え子の目線でものを考えられない人は、他人に何も「教える」事ができない。それなのに自分は教師だと思い込んでいる。いやそれどころか、自分は正しい教師だと思い込んでいる。これ以上学生を傷つけるな。早く辞めてくれ。でもそういうのに限って辞めようとしない。私はこの大学の将来を見限った。

私がいま講師として教えている学問分野は、実は私の得意分野ではない。だからその分野で論文を書くのも他人より苦手だし、とりわけ面と向かって議論するのが他人より苦手だ。どうして得意分野でもないのに講師になったのか。それには大きな理由がある。私がまだ大学院生だった頃、まさに上に書いたような、自分のレベルを中心に考える事しかできない教授の授業を受けた。私は出来が悪く、それは私自身も認めていた。でも毎回の授業をなんとかしなければならず、恐怖におののきながら毎週必死で頑張った。それでも出来の悪い人間のやる事は、時には頑張ったと言いつつも逃げてしまい、時には大学院書庫で外国語書物を何十ページもコピーして辞書と首っ引きで頑張ったものがほとんど的外れだったりと、効率が悪かった。今考えても、私はこの分野で能力がなかったと思う。では何が講師になった理由なのか。私がどんなに頑張っても、教授は自分のレベルからけっして動こうとしなかった。いや動く方法を知らない人だった。口から出る言葉がどんなに私を傷つけても、自分と私との距離を縮める方向で対話しようとはしなかった。初め私は自分が悪いと思っていた。出来ない自分が悪いと。そして頑張って、頑張って、自分にはこれが限界だと思う勉強をした後で上から目線で不出来を非難された時、ようやく気づいた。頑張れるだけ頑張って駄目なら、もはや私は悪くない。となれば、悪いのは教授のほうだ。私が出した結論は次のものだった。「教授、あなたは立派な研究者だ。だが断じて教師ではない。私が教師になって、教師とは何かを体現してやる。」それで私は教師になった。

話がずいぶん逸れたかもしれない。そろそろ話をまとめよう。私は最初に書いた。「失った時に初めて、何が大切かがわかる。」普通は、大切なものに気づくという意味で使うが、それが大切じゃなかったんだと気づく事もある。最後に、私にとって大切じゃなかったと気づいたものの話をしよう。上に書いたとおり私は自分から教師になったが、好きな分野で教師になったのではない。むしろその分野での出来ない人間が、教師になりたい一心でやってきた。そこでひとつの問題が生じた。いまだに、この分野が好きな専門家の中では、私は出来が悪い。授業は得意なつもりだ。それどころか、どうやって良い授業をしようかとばかり考えながら今までやってきた。しかしひとたび授業を離れ、専門家の中に入って話すとまるで別世界のように厳しい。2011年にはついに、私が教師として認めない古狸にその件で私が批判されてそれがトラウマとなり、その症状が改善する事なく突然叫んだり古狸にたいする殺人衝動が起きる話はこのブログの複数の記事になっている。私は恐い。何が恐い。実は回りの専門家ほど私は出来が良くないのがばれるのが恐い。今までずっとそうだった。しかし今回リストラされた。リストラされて学校という職場から放り出されると、恐くなくなる。私からは大切な授業も失われるが、それと同時に専門家の中に入って話す機会も失われる。私が他の専門家ほど出来が良くなくても、それは一気にどうでもよくなる。意外なほど一気にどうでもよくなる。なぜ今まではそんなに恐かったのか。非常勤でこつこつと授業をこなす限りは、何の問題もないではないか。そう、私は「もしも将来専任になったら」と考えていた。専任になったらたくさんの人と話をし、対等に渡り合わなければならない。授業にかんしてなら対等どころか優位に立つ自信がある。しかし回りの人が考えているのはたぶんそれではない。専門家としての話なのだ。だから恐かった。ところがどうだ、実際には専任どころか、非常勤の職も失われようという現実。今まで、「大切なのに自分は出来が悪い」と苦しんできた専門分野は、いざ現実に直面すると、どうでもいい物になろうとしている。そもそも学校自体が末期症状の大人の集合体だ。これもどうでもいい。もしも数十年前の私がこの未来を知っていたら、つまり専任になる事はなく非常勤の職が先細りで終わるだけだと知っていたら、私は数十年もこの件で苦しむ必要はまったくなかった。今まで非常勤講師として授業をしていて、私の専門分野の不出来で不都合があった事は一度もない。同じくそれが理由でコマ数を減らされた事も一度もない。コマ数が減るのはいつでも私の努力や技量が何も関係しない理由、学校側の経営不振だった。非常勤でいる限り、私は恥ずかしがる必要のない立派な教師だったのだ。私は仕事を失う事で初めて、自分が数十年来もち続けてきた苦しみが実は不要なものだったと知った。専任にさえならずに済めば、何の苦しみがあるものか。末期症状の集団であり、愛すべからざる学校のために身をすり減らす専任に、私はならずに済む。

さらに言えば、私はすでに完成していた。私にとって大切だったもの、失って再認識した大切なものは、教え子だ。その教え子のためによりよい授業をし、大学院生時代の教授を見返してやるという私のライフワークは、とっくに完成していた。非常勤講師の仕事を失う事で、ようやく私は、自分にとって本当に大切なものに向き合い始めている。他人の目を気にして心配したり苦しんだりする馬鹿馬鹿しい大切でないものではなく、自分が今まで生きながら心の心棒として保ってきた大切な教え子への思いに。

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