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人生補完計画、おわりのはじまり [人生補完計画]

私が「自宅地図」と称して自分の家にある自分のものを全部チェックしてPCに記録しはじめたのが2013年。それと同時に天袋に上げてある書籍から記憶にあるページをデジカメ撮影した。その頃は、「天袋から物を降ろさなくてもほんの少し参照したい程度ならばPCで済ませられるように」という意図で作業していた。

その後、親から今の家を出たいと言われて私は恐れおののいた。なぜ恐れおののくかといえば、引っ越すとすれば家の間取りは今の江戸間ではなく団地サイズ、いま持っている物をすべて持って行くことはできない。多くの物を捨てて行かなければならないからだ。だから私は「可能な限りの情報をPCに収めて、一緒に持って行けるように」と考えた。まずはカセットテープ音声のPC保存から始めた。ところがカセットの外見や音声を保存すればするほど、思い出はそういうデジタルデータの中にあるのではないとわかってきた。カセットケースからカチャカチャと音をたてながらテープを取り出し、ラジカセなどのカセットホルダーに入れる。そういう感触がつまり昔の思い出だ。それがわかると、最初は捨てるためにPC保存していたカセットテープそのものが捨てられなくなった。

しかし時の流れは人を妥協させる。昔の雑誌のPC保存では、実物の紙を見ればデジタルデータにできない紙の質感を思い出すが、しばらくするとそれを忘れ、デジタル化した画像で満足するようになる。

でも厚みのある書籍のスキャン作業は雑誌と違い、本が痛まない程度に開いてスキャンするので綴じ代の近くが非常に歪み、ぼやける。元の本を取っておいて日常的な参照にデジタル化したものを使うには問題ない結果となったが、元の本を捨ててこの家を去るとなると、本を壊してでも綴じ代を完全に開いてスキャンするべきだったかと後悔した。

レコード音声のデジタル化では、音声そのものの保存は自分にできる範囲で最高の結果になったはずだ。しかしレコード自体がカビだらけで、自分の思い出の品がこんなに悪い状態になっていたかと残念な思いだ。もうひとつ残念なことがある。レコードジャケットをデジカメ撮影したが、音声のデジタル化だけで大変な作業だったので、ジャケットのデジカメ撮影はレコードが回っている時間を使って行うしかなかった。レコードを夜再生すれば蛍光灯の光の下で、昼でもカーテンを閉めて作業していればカーテン越しに色のついた光の下で撮影しなければならなかった。つまりこの撮影は当時の私にとって一時的なもので、音声のデジタル化が終わった後でいつの日かゆっくりとジャケットを本格的に撮影するつもりだった。

ところが時が流れ、私は当初の考えをすっかり忘れていた。いつしか私は書籍も、カセットテープも、レコードも、デジタルデータとして保存できたと勘違いしていた。ある日私は、天袋の書籍のおもなページをちゃんとデジカメ撮影してあるか再確認しておこうと思った。そして愕然とした。私はおもなページを撮ったのではなく、一冊につきほんの数ページを撮っただけだった。そういえば、天袋の物を全部降ろして整理するという大変な時にデジカメ撮影したのだった。パラパラとページをめくって思い出のあるページを見つけて撮る以外に、何ができようか。私は、この家を出てゆくことになった時、天袋の書籍の多くを持って行かなければならないと決心した。とてもデジタル化はできない。

デジタル化ができない一番の理由は、私の健康状態だ。上記のさまざまな作業が私の健康を害した。書籍をスキャナやデジカメでデジタル化する作業を始めてから数年の間に、私の足腰は実感できるほど悪くなった。大量の物を作業するには、時を選んではいられない。寒い真冬でも、冷気が這う自室の床に座ってスキャナを動かし続けなければならなかった。足がしびれても、つっても、痛くても、やめるわけに行かなかった。そうしたら、数年後にはまともに動けない足腰になっていた。思い返せば、天袋から全部の物を降ろして整理した2013年には、私はまだその上げ下ろしができる足腰だった。今では、PCの前に座る時間も床に正座して座る時間も自分で管理して短くしないと、足腰が悪くなる。私はもう、同じ作業を繰り返せない。

最近このブログに書いたが、長年使ってきたデジカメがいつの頃からか色合いに不満を感じるようになった。たしか、レコードジャケットを撮影した頃から色合いの問題を感じた。レコードレーベルを撮影すると、実物よりも明るい色になった。それが嫌だった。それを思い出し、私はデジカメ撮影したレコードレーベルを再確認した。そして愕然とした。私はレコードジャケットやレーベルをきちんとデジカメ撮影したと思い込んでいた。ところが実際には、上に書いたように一時的な撮影で、カーテンの緑色が映り込んでいる画像も多数あり、保存用のデジタル化ではなかった。

一方では書籍の膨大な量の未撮影ページや撮り直しが必要なレコードジャケット。他方では深刻な状態にまで悪化した私の足腰。そして今年もついに来る、足腰をこわばらせ悪化させる寒い冬。私は、少なくとも今は、もう何もできないと感じた。

私が今までやってきたことは、意味があるのか。書籍もレコードも、この家と共に捨てて去るにはデジタル化保存が中途半端すぎる。他人が仕事や家庭に頑張る時間さえも費やし、健康を損ねてまでやってきた作業は、意味があったと言えるのだろうか。

いやしかし、対象の価値は個人が決めるしかない。たとえばある人にとって、我が子が何よりも大切だとする。ところが他人にとっては、それはただの子だ。対象の価値は個人が決める。他人や世の中は関係ない。もしも他人や世の中を意識しはじめたら、自分の中での大切さの基準が狂ってゆく。人間とはそういうものなのだ。