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個人的仏教探索 (3) [個人的仏教探索]

個人的仏教探索 (3)

仏教探索について書こうと思いつつも、日々の仕事に追われて今に至ってしまった。本当は昔読んだ本の紹介から順番に書くつもりだったが、これほど更新が遅れてはそんな事を言っていられない。最近読んだ本から書くしかない。それなら読み直す必要なくすぐに色々書けるから。

私は仏教の解説書を探していた。学生時代にも仏教解説書は探して手に入れ、何度も読んだが、それらはあまりに古い。それにどうも物足りなく感じる。私の学生時代とは違って今はインターネットで自宅にいながら何でも探せるので、私は新たに解説書を探した。そして高崎直道著「仏教入門」(1983年 東京大学出版会)にたどり着いた。今日はこの本について色々書こう。

この本は仏教を学問的に取り上げている。これはある意味、安心して知識として取り込める。もちろん他の取り上げ方もある。仏教は宗教だけれども学問は仏教を宗教として論じようとしない(思想として論じる)から、学問的に取り上げる事は遠巻きに眺める事に過ぎないかもしれない。これに対して、ある宗派が著した書物ならば、宗教としての(その宗派の)仏教を直接に取り入れる事ができる。でもその反面、他の宗派の事は何もわからないので、「そうか、これが(これだけが)仏教なんだ」と思い込む恐れがある。学問的なアプローチは、遠巻きだけれども全体を見渡そうという意識がある。

この本は多くのページ(章)を割いてとりわけ仏教の思想的な面を解説している。もちろん仏教にとって論(仏教徒自身が行った経典の解釈、つまり思想)は大事だし、あるいはアカデミックな方面からの思想的研究には意義がある。それはそれとして、仏教とその取り上げ方には他の面もある。たとえば仏像などの図像学的な研究。たとえば浄土宗での仏国土の描写。たとえば陀羅尼や儀式の手順の解説。そういった事が知りたい人は、他の本を探す事になる。

仏教を思想として取り上げるからか、この本は原始仏教から複数の宗派が生じた事をきわめてポジティブに、つまり良い事だと解釈している。経典をいかにして矛盾なく解釈するかという諸派の努力と、その結果としての分裂を、仏教の「発展」とみなしている。でもゴータマ・シッダルタは、伝えられる所では「この教えを守り、分裂してはなりません」と言っていなかったか。この本には、「教祖の言葉にはそれほどの関心はないよ。後の仏教徒が様々な思想をもちながら分裂してゆく過程に興味津津なんだ」という立場が見え見えだ。アカデミックな立場が仏教を思想として研究する場合の、一種のイデオロギーというか、そこから出る事のない一線がここにある。

著者の頭の中にはすでに「仏教とはこういう思想の上に成り立っているものだ」というイメージ(最大公約数)ができていて、この本はそれを様々な局面から解説している。つまり、「チベット仏教は云々、中国仏教は云々」という解説がしたいのではない。「(全ての)仏教とはこういうものだ」と記述し、千差万別に分化した各派の相違は各章の中で補足だけすればうまく行くと思っている。そこには少なくとも、年代的または地域的な差異ではなく、全仏教の最大公約数を記述したいという意図が見て取れる。

以上の文章で私はこの本をけなしているかもしれないが、それでも私はこの本を否定したいのではない。賛同する要素と意見を異にする要素をどちらも列挙したかったというのが真意だ。そもそも私はネットで本を買う時に結構事前調査をするので、気に入らなければ買わない。アカデミックな立場から思想としての仏教を解説する本として、嬉しい一冊だ。つまり、「仏教」について「偏りの少ない」知識を得るための絶好の書だ。

今後個人的に欲しいものは、この本とは別のアプローチをしている本。つまり、歴史的に諸派の相違を強調した記述だ。上記の本の著者はその道の熟練者だから、「仏教とはこういうものだ」と言ってしまえる。でも我々一般人は、何も知らない。突然天から降ってきたように「こういうものだ」と言われても、残念ながら興味が湧きにくい。20-30年前ならば、大学の授業はそんな感じだった。「諸君がこの授業で学ぶものは『こういうものだ』」みたいに。でも時代が変わった。もしも教える側が、「最初の人はこう言いました。そうしたら次の人はこんな思いを持って、こんな考え方をして、別の事を言いました。」みたいに各派の相違にクローズアップして、人間同士の考え方の違いとして解説したならば、聞いている(読んでいる)人はもっと興味をもてる。今の時代はきっと、そんな表現方法が求められている。
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