SSブログ

個人的仏教探索 (2) [個人的仏教探索]

個人的仏教探索 (2)

当然のことながら、私は並の人間にすぎない。そして並の人間がみなそうであるように、私も考え方がコンピュータのように理路整然とはしていない。それどころか矛盾だらけだ。

仏教経典を読んでいれば誰でも気づくが、仏教は人間を世界の頂点と考えている。つまり人間は宇宙の最高の真理を悟れる存在だ、と。ブッダは人間のひとりであり、そのブッダが悟りを開いた結果、神々さえも彼を称え、彼に帰依する。ところが私は仏教のように人間を賛美できない。中学生の頃から、私は地球上の全生命の中でもっともたちが悪いのは人類だと思っている。世界史の教科書を読んで、人間は決して懲りることなく延々と戦争を繰り返してすでに数千年が経った事を知った。今までの数千年で懲りなかったものが、これからの数千年で懲りるとは思えなかった。その私が、人間を宇宙の頂点とする仏教を信じている。これはとんでもない矛盾だ。

他にも矛盾はある。私は歩いていて鳥居を見つけると、可能ならばそこへ行って二拝二拍手一拝する。これも子供の頃からずっと続けている。でもこれは神道だ。神道と仏教は別の信仰対象だ。これも矛盾だ。さらに矛盾することには、鳥居を見るたびにお参りをする私は、神道の中でどうしても好きになれない部分がある。それは神武天皇についてだ。「古事記」は神という非人間と、私と共時的に存在する人間である「天皇」ひいては皇室(私は現人神を教育された世代でないので)という存在を結び付けてしまった。当時まだ子供だった私は、これをもって古事記を「胡散臭い」と判断した。それ以来、私は神道を全面的に信じることができない。でもお参りはする。矛盾だ。

話が神道のほうへ行ってしまった。仏教の根本思想も私は信じられない。一切皆苦。この世の一切は苦だ。楽しくなんかないんだ。この徹底した悲観主義は何なんだ。仏教では、楽しいことがあった時にそれを楽しんで呆けてはいけないらしい。私はここまで悲観的にはなれない。

どうしてこんなに仏教に反するような私が、それでも仏教を信じるのか。私の場合、理屈から入ったのではないから、このように矛盾をはらんだ信じ方をしているのだと思う。私は幼少時からの長い人生の中で時々、個人の思い出に強く刻まれる形で仏教的なものとの接触があった。だから仏教から離れられないのだと思う。古くは小さい子供の頃、父から般若心教が書かれた扇子をもらった。それがとても気に入っていた。もちろんその時は信仰とは無縁だった。同じく子供の頃、母の実家で仏壇の引出しから阿弥陀経を見つけた。何だかわからなかったが気に入った。大学生時代には自分の半身として大事にしていた友が離れて行き、自分の存在が無くなってしまったような精神の危機にさらされた。相手は絶対に失うことのできない自分自身だった。毎日阿弥陀経を写経して奇跡を祈った。これらの体験には哲学的思想もなければ宗教団体との接触もない。ただひたすら私の人生のページに分離不可能に絡みつき刻み込まれた仏教なのだ。
(つづく)
コメント(0)  トラックバック(2) 

コメント 0

コメントの受付は締め切りました

トラックバック 2