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カセットテープ随想 [  カセットテープ(補完計画)]

私のパソコンのキーボードで昭和の歌手名の最初のひらがな3文字ほどを打ち込むと、まず間違いなく変換候補の先頭に歌手名が漢字で出る。ネットに接続していなくても出る。それはひょっとすると、何年もカセットテープの歌手名を漢字変換してきた結果がIMEの変換学習として残っているのかもしれない。ところがこの歌手名は一発で変換できなかった。よこたさなえ。ありふれた名前なのに。この歌手とその歌は、私にとってレアな存在だ。漢字変換すら手間取るほどに。

以前の記事にも書いたが、1982年から83年ごろのカセット録音で私は、人々のやらない変なことをしていた。歌手名も曲名も書き残さずにただ曲そのものだけを録音していった。世にレコードの「ジャケ買い」というのがあった。アーティストを知らず曲を知らなくても買っちゃうという。私のカセット録音は、歌手名を知らず曲名も知らずに録音した。歌手名と曲名は、たいてい後年にカセット録音をデジタル化した時点で苦労してネット検索して(おもに歌詞から)調べた。

こういう変な録音方法にもメリットはある。歌手の顔も衣装も振り付けも見ずに、純粋に曲だけを鑑賞できる。当たり前だけど歌手は人間だ。人間ってのは天使じゃない。嫌な面があったり他人を誤解したり苦しんだり悩んだり怒ったり、そばかすがあったり鼻が低かったり足が短めだったりするのが人間の当たり前の有様だ。ところが歌はフィクションだ。たいていは理想的な世界を歌っている。たとえそれが失恋の歌でも。だから歌っている現実の人間と切り離して鑑賞すると、ある意味理想世界に浸れる。

そういうわけで、カセット録音をデジタル化する前は私はそれで満足していた。さてデジタル化し、それに伴って歌手名と曲名をネット検索するようになると、私は自分の行為に矛盾を感じるようになった。歌手の顔が自分の想像とすごく違った!とか、ステージで歌う声がレコードより音痴だ!とか。そう、歌がそれほど上手くない歌手の場合、ステージ歌唱に比べてなぜかレコードだけがましな音程で歌っていることがよくある。だから、レコードが元になっているFM番組の歌を録音してそれだけを聴いてきた私は、ネット検索してステージ歌唱を聴いたとたんにショックを受けることがある。某歌手の「シックスティーンシックスティーン ボッサノッバー」は、その極端でわかりやすい例だ。ネット検索しなければ私はレコードの歌だけを聴いて自分の世界に浸り満足していられたのに。歌手名と曲名を知りステージ歌唱を聴くのは私にとって本当に正しい行為なのか。悩みながらも私は作業を先へ進める。

そして今、Summer Breezeまで来た。ひとつひとつの歌には私個人の思い出がある。この歌の場合、breezeを英和辞典で調べて「夏の嵐じゃないんだ。そよ風なんだ」と思ったことを今も覚えている。これから「補完」作業をするカセットテープがまだ20巻以上あるから、私はいつまでもこの歌の元に立ち止まってはいられない。そして作業は今後何か月も(運が悪ければ何年も)続くから、今度いつこの歌を聴けるかもわからない。これが最後のつもりで、ひとつひとつの歌に接するべきだと思っている。
この記事の最後を替え歌風に締めくくりたい。
summer breeze
きっとあの歌は季節を渡る風だ
summer breeze
そしてあの歌は潮騒に消えてった

元歌 サビの部分のみ



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