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個人的仏教探索 (8) [個人的仏教探索]

上野の森美術館で「聖地チベット -ポタラ宮と天空の至宝-」をやっている。チベット仏教は日本の仏教とはかなり違い、それゆえに興味深い。滅多にない機会なので見て来ようと思うが、その前に下調べをしておく必要がある。

チベット仏教そのものについての下調べが主だが、今回の展示についても下調べが必要だ。

すでに展示を見てきた方、それもチベット寺院をご存じらしい方のブログで興味深い記事を見つけた。リンクの先は人様のブログなので、いつデータが削除されるかわからない。それで無許可で申し訳ないが、下に一部引用させていただいた。

ここから引用>>

展示を見始めて、すぐに感じる違和感。
あたりまえだが、仏像にもタンカにも、
カタ(白い布)が1枚もかけられておらず、
灯明も捧げられていない。マニ車もない。
チベット式の敬意の払い方が一切ない。
かといって手を合わせる人がいるわけでもない。
あと、ちゃんと時計周りに順路をつくってくれないと、
気持ち悪いんですけど。
でもここは日本だから、いいですべつに。

<<引用ここまで

私はチベット仏教に詳しくないけれども、おっしゃりたい事は私なりに理解した。

1.本来信仰の対象である仏像が美術館の展示物になるのは、本当は悲しい事だ。チベット仏教を知りたくて見に行っても、本当に大事なものが伝わってくるかどうかは何ともわからない。そもそも私が仏教徒ならば、仏像を美術品として見るのは無礼ではないのか。右回りの礼をしなくて良いのか。

2.日本でチベットの仏像が展示できたのは、皮肉な事に中国政府がそれらの仏像を本来あるべき場所から略奪した結果だ。この件はすでにネット上で多く語られた後で、検索すると沢山の人の様々な意見が出てくる。美術館前で人々の抗議や衝突があるという情報も見つかった。

簡単だが、「今回の展示についての下調べ」はこれ位にさせていただきたい。そしてこれから数回の記事を使って、「チベット仏教そのものについての下調べ」をする予定だ。


これで今回の記事を終わりにする予定だったが、今回はまだ少ししか書いていない。そこでチベット仏教についての下調べを始めてしまおう。以下の文章は、知ったかぶりをして書いているが、実はよく知らないながらも調べながら書いたものだ。

チベット仏教はいわゆる大乗仏教で、しかも多分に密教を伴う。密教といえば日本にも天台宗・真言宗があるが、それらとはだいぶ違う。なぜなら日本の密教には、密教展開の中でも中期密教にあたる「行タントラ」と呼ばれるもの(大日経など)と、せいぜい後期密教のうちでも初めのほうの「瑜伽タントラ」と呼ばれるもの(金剛頂経)が伝えられたが、チベット密教は後期密教だからだ。後期密教は先に触れた「瑜伽タントラ」に終わらず、さらに先に「無上瑜伽タントラ」がある。(「タントラ」は密教経典のこと)

チベット仏教のプトゥンは上記のように密教の展開を分類した。その意味では先へ行くほど密教は熟していったと言えるだろう。しかし仮に日本に「無上瑜伽タントラ」が伝えられていたとしても、その特異な教義は日本人には馴染めなかったに違いない。ブッダが男女のエッチな行為の表現を用いて法を説き始めた(グヒヤサマージャ・タントラ)などと言われては、日本人の仏教徒は怒るか、呆れるかのどちらかだろう。ただ、信教とは別に、特異に感じられるだけに興味深いのは事実だ。今回のチベット仏教展示にたいする反響がそれを裏付けている。

私が手持ちの書物を読んだ所では、「無上瑜伽タントラ」の特異さ、言ってしまえば"おぞましさ"は、こんなものではない。気持ち悪くなるような行為にも言及されている。だから正直に言って、私の心の中には後期密教への仏教的で真面目な関心と、世俗的で不真面目な興味と、気持ち悪くてもうやめようかという逃げ腰の気持ちの3つが同居している。

さてそれでは上野の森美術館の展示では、後期密教のどこまでに触れているのだろう。"説明されて気持ち悪くなるような行為"にまで触れているとはとても思えない。ある部分で体よく丸められて説明されている(または説明が省かれている)のではないだろうか。その点にも興味がある。そしてもちろん、私がまだ知らない何かがこの展示から得られるかもしれないと思い、それに期待もしている。

この続きは、また後日。
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