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第四の生き甲斐を探します241 生き甲斐論(序、1) [手記さまざま6]

生き甲斐論




人は様々なので、生き甲斐もまた様々なものがある。新たな生き甲斐を探すには、どのような生き甲斐があるかを考えることが有用だ。それによって、今まで気づかなかったものを生き甲斐として認識できるかもしれない。

どのような生き甲斐があるかを考える手段として、生き甲斐を区別・分類するのも有用だ。分類そのものに価値や意味があるのではなく、分類の途中で様々な生き甲斐を認識することが目的だ。




ひとつめの分類。努力して得ようとする生き甲斐と、努力せずしてそこにある生き甲斐がある。本・カセットテープ・レコードのデジタル化は、デジタル化作業という努力の産物だ。ところが実際には、満足のゆく完璧なデジタル化保存は存在せず、保存しようとすればするほどオリジナルの大事さを思い知った。だからついには、デジタル化の結果は生き甲斐でなく、オリジナルこそが生き甲斐だと思うようになった。オリジナルの本・カセットテープ・レコードは子供の時から保存していたもので、努力せずしてそこにあった。私にとっては、努力せずしてそこにあるものが生き甲斐なのかもしれない。

若い頃に、女性への愛に命を賭けようと思った時(第一の生き甲斐)も、気づけばそこに好きな女性がいた。就職して仕事に人生を捧げようと思った時(第二の生き甲斐)も、就職してそこに仕事があった所から始まった。すでに書いた本・カセットテープ・レコードが第三の生き甲斐だから、私の今までの生き甲斐は全部、努力せずしてそこにあったものだ。私だって努力はしてきた。デジタル化然り、「J」の翻訳然り。でも本当に生き甲斐にできるのはそれではなかった。

私が生き甲斐のためにする努力は、生き甲斐を得るための手段ではなく、生き甲斐を愛するための手段だ。

世の中には、努力して得る生き甲斐をもつ人もいる。例えばスポーツにせよゲームにせよ、人と競い、勝って頂点の称号を得るのが生き甲斐ならば、人は努力して生き甲斐を得る。私がそれを真似て、今後努力して生き甲斐を得ても構わない。ただ、今までそれを生き甲斐にできなかった私が、果たしてこれから生き甲斐にできるだろうか。

1の結論:私は今まで、努力して得る生き甲斐でなく、努力せずしてそこにある生き甲斐をもっていた。これから先、努力して得る生き甲斐に切り替えても良いが、今までの私を考えると、努力せずしてそこにあるもののほうが生き甲斐になりやすい。