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エルマー [手記さまざま4]

「エルマーと16ぴきのりゅう」は、私が子供の頃に父が買ってくれた本だ。その後、背伸びをしたい年頃になった時、私は子供の頃の沢山のものを捨てた。その時にだと思うが、この本も捨てた。大人になってから、買ってくれた父に悪いことをしたと思い、思い出もあったので、仕事帰りに新宿で復刊本を見つけた時に買った。
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買ったはいいが、私は仕事に追われるつまらない大人になっていた。この本は読むことなく、ビニルに包んで天袋に仕舞った。そして今年、叔父が急死したのをきっかけに、私は今住む家を追われるように出てゆくことになり、天袋にあるほとんどの物は処分しなければならなくなった。せめて処分の前に、画質は悪いが1枚1秒でスキャンできるオーバーヘッドスキャナCzur Aura Proで、あらゆる本をどんどんスキャンしている。そしてこの本もスキャンした。スキャンしたということは、次回の資源ごみの日にお別れということだ。

この本は買ってすぐにビニルに包んで仕舞ったので。新品だ。人によっては、新品ならばネットで売ればいいと思うだろう。私は2つの理由から、それが出来ない。まず、今までネットで物を売った経験がないが、今はそれを学んでいる暇すらない。来る日も来る日も本のスキャン作業だ。もうひとつの理由は、私は金が欲しくてネットで売るのではない。長年連れ添ってきた「こいつ」が、ごみとして焼却されるのが悲しいから、誰か他の人に使ってもらえないかという気持ちだ。そして、本当に私が愛している品は、後年に復刊本を買った「こいつ」ではなく、小さい頃からボロボロになるまで読んだ本だ。そのボロボロの本はネットで買い手がつかない。本当に愛する本たちは、救ってあげられない。ならば、ネットで売る意味がない。

それでも今の境遇から良いことを探し出すならば、本来ならば定年後に暇が出来た時に初めて再会するはずだった天袋の本たちと、こんなに早く再会できたという事だろう。こんな転居騒動がなければ、仕事で忙しい私の歳でこの本をまた見ることはなかった。


ところで、1作目「エルマーのぼうけん」での日本語訳の「ぼくの」は原語でmyだから、「ぼく」 (I) は当たり前に男でも女でもありうるって? この歳になって初めて気づいた。作者は女性だって? 女性作家が男を主人公にして話を書くのは当たり前にあるが、女性が女を1人称にして話を書くのはさらに当たり前にある。このmy (I) 、つまりエルマーの子は、娘かもしれないな。つまらない事かもしれないが、長生きすると、今まで誤解していた些細な事が何かのきっかけで理解できる場合がある。