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追想という映画の字幕と吹替について [  VHSビデオ(補完計画)]

私はVHSビデオ時代に追想という映画を録画した。テレビ放送の吹替版と、その後これもたぶんテレビ放送だったのだろうが字幕版を。VHSビデオをPCへ移すさいには、昔から好んで見ていた吹替版だけを保存した。でも字幕版を保存しなかったことが後から気になって、それが理由で後年にスカパーで字幕版が放送されると見るようになった。字幕は複数の人の訳が存在して、それぞれに個性がある。先日、酔った勢いでA訳とB訳の比較を始めた。酔った勢いだったから完成度の低い部分的な比較で終わってしまったが、字幕版の比較だけでなく以前から吹替版に感じていたこともメモできたので、これを記録しておきたくなった。

(映画のテロップ)Russian Easter
A訳:ロシア正教の復活祭
B訳:ロシア復活祭
おじさんの暴言:「ロシア復活祭」といえば、字義通りにはロシアの復活を祝う祭りだ。でももちろん実際には違う。日本人は字幕が出たら無意識にまず字幕を読もうとするから、私は一瞬「ロシアの復活?」と思った。その一瞬後に映画のテロップを見て、「ああ復活祭か」と思った。この字幕は、もしもEasterをよく知らない視聴者がいたら、視聴者に読み間違えられる所だった。

(ボーニン将軍がアナスタシアの替え玉について語る場面)
A訳:本物と思って見てはだめだ アナスタシアはいない 10年前に銃殺された
B訳:なぜ本物のアナスタシアとして彼女を調べる 本物は10年前に殺された
おじさんの暴言:どちらも訳者の個性が出ていて好きだ。そもそも映画+字幕というのは、オリジナルの外国語音声映画+字幕訳者の共同作品だから、どれにも個性があり、どれも微妙に違う個別の作品といえる。どちらも捨てがたい。

(替え玉が耐えかねて逃げようとする場面)
A訳
(アナスタシア)そうじゃない
(ボーニン)君ならなれる
(アナスタシア)死んだ人でしょ
(ボーニン)関係ない
(アナスタシア)無理よ 家族に見破られるわ
(ボーニン)認めてくれる
(ボーニンと共謀してるおっさん)1000万ポンドのためなら
(アナスタシア)お金のためにウソをつくの?
B訳
(アナスタシア)私は別人よ
(ボーニン)君なら本人に
(アナスタシア)死んだはずよ 親族が偽物呼ばわりを
(ボーニン)受け入れるさ
(ボーニンと共謀してるおっさん)金のためならな
(アナスタシア)私を愛するふりをすると?
おじさんの暴言:私はB訳の「私を愛するふりをすると?」のほうが絶対いいと思う。私の耳では残念ながら英語を正確に聞き取ることができないが、私にはlove me for money? と聞こえた。人間、お金のためにウソをつくことはある。でもお金のために愛するとなれば別。この場合、「愛」という言葉は大事かと。
ちなみに私が持っているテレビ放送の吹替え版では一部がカットされているので、そもそも比較できない。

(映画のクライマックス。皇太后とアナスタシアが抱き合う場面)
A訳
(皇太后)毎晩召使いが 次から次と部屋を回り ランプに火を入れて 部屋を輝かせる 私たちも同じよ 消えた過去を2人で照らすの 死んだと思ってた でも 帰ってきたのね
(抱き合う2人)
(皇太后)よかった
(皇太后)でも あなたでないとしても 私に言わないで
B訳
(皇太后)毎夜 召使が部屋から部屋へ 明かりをともす 暗い部屋部屋が 輝く光であふれるまで 私たちも過去を照らそうと 明かりをつけ続けた かいあって お前が 過去から現れてくれた
(抱き合う2人)
(皇太后)帰ってきた
(皇太后)万が一 本人でないとしても 私には黙ってて
おじさんの暴言:この部分で私がA訳B訳に感じたことは、英語が聞き取れない私が一生懸命聞いた結果、さほどの違いではないという結論になった。むしろ違いがあるのは、私が持っているテレビ放送の吹替え版のほうだ。私が持っている吹替え版では、A訳B訳それぞれの最後の行がカットされている。たった数秒のカットだが、これは映画全体のプロットにすら影響すると私は考える。

オリジナルの映画では、主役の女性が本当にアナスタシアであるかどうかには焦点が絞られない。いや、あえて言うが、ひょっとするとアナスタシア本人ではなかったのかもしれない。むしろ、記憶を失いながら今まで苦しんできたその女性が、アナスタシアという存在に自分のアイデンティティーを見つけたいという思い、そして皇太后が自分の身内を全員銃殺され、ただ一人生きながらえて苦しみつつ、アナスタシアが生きてはいまいかという一縷の望みをかける思い。それをこそ描きたかった。(だからアナスタシアが実際に銃殺されたことが証明されても、それはこの映画の価値に何ら影響しない。)でも私が持っている吹替えは少し違う。あの一行がないだけで、主役の女性はまぎれもなく本物のアナスタシアだったという完璧な感動的再会シーンになる。テレビ放送のさいに可能な限り映像をカットして短くしなければならなかったはずで、その際に、「お涙頂戴」的なストーリーを好んだ昭和時代の日本人に合わせて、あの一行をカットしたのではないだろうか。

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