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九州 [旅行 国内]

ここに紹介するのは、私が過去に体験した旅行の覚え書きです。これから旅する人の参考にしてもらうと同時に、ここに来てくれた人から私の知らない旅のオススメ情報をもらうのが目的です。

旅の感想は人それぞれに違うので、あなたが旅で良かったと思う所を私の覚え書きがけなすこともあるかもしれませんが、その時はどうかご勘弁ください。

**** 以下、九州北部中部(長崎あたりを抜かす)覚書 パッケージツアー 2003年 ****

羽田より福岡空港へ。

せっかく福岡に着いたのにサッサと大分県を目指す。途中、このあたりが一年中雛壇を飾っている日田だと言われるがよくわからん。

深耶馬溪(じんやばけい) 一目八景(ひとめはっけい)
バスで着いたそこは、田舎のアスファルトの道の途中、たいしたことのない物見台へとほんの十数段ほどの階段を登る。ほど遠くない所のぐるりに岩場岩山があり、それが一目で見られる八景の奇岩というわけだ。奇岩だが規模は小さくてその周りだけ。

青の洞門
その昔、寺へ行くのに断崖を鎖を伝って行かねばならず、犠牲者が少なくなかったところ、かのナントカいう上人が自分の罪滅ぼしのために数十年をかけて鑿と槌でトンネルを掘った。この地方は溶岩台地で、場所により固い溶岩と柔らかい溶岩の部分があり、上人が彫ったのは柔らかい部分だったから鑿が使えてヨカッタネとはバスガイドの言。戦争の際に軍用に道路拡張をしたので今では上人の手掘りの部分はほとんど残っておらず、わずかにアスファルト道路の地下を横切る狭いトンネル(それでも観光用に少し広げたらしい)と、掘り始めた時に最初に作ったふたつの明り取りの窓(外はすぐ川)のある広いトンネル部分だけが残っている。後者のトンネルには上人が間違った方向に掘り進めてしまった跡が窪みのように残っており、そこに上人の像がある。ちなみに青の洞門の青は色ではなく、地名だそうだ。また、寺へ行くための断崖の鎖跡は少しだけ岩場に残っている。

宇佐神宮
能清経に出てきた宇佐八幡だ。全国八幡宮の総本山とのこと。参拝は古式に則り二拝四拍手一拝とする。本殿は三つの宮が並んでいるので、二拝四拍手一拝を三回繰り返す。なお下宮もあるので六回繰り返す。ということは賽銭も六回だ。財布の小銭がスッカラカン。

富貴寺(ふきじ)
国東半島などというよく知らない所に一体何があるのかと興味も湧かずにいた所だが、来てみてびっくり、ここはひなびた田舎に見ごたえのある仏像が多数残る良い所らしい。交通の便が悪く、多くを巡るのは観光バスでは困難とのこと。富貴寺はじつに田んぼと田舎道と杜の中にぽつねんとある。少し石段を登って大堂へ出るが、ここの文化財は痛みが激しく、雨の日は湿気を避けて扉を閉めたままなのだそうだ。それで平屋の堂と周りの石像を見るのみ。周りには冥界十王などの石像や塔が立っていたが、ふと周囲の気色が恐ろしくなりホームビデオ録画を中止。雨のせいだろうか、それともその場所のせいだろうか。

真木大堂(まきおおどう)
本日最後の観光だが、時刻は四時五十分で、冬だからもう暗くなってきた。拝観時間が五時までという駆け込み状態だ。真木大堂は良かった。とくに堂内左端にある大威徳明王は六面六臂六足のうえ、堂々たる水牛にまたがる威容。堂内右端の不動明王も後背の火炎がめくれるようにたなびく様子にとても奥行きと立体感があり、これが明王の頭を包み込んで見ごたえあり。中央の阿弥陀如来と四天王像もたいしたもの。何だかわからずに来たこの場所が、今回の旅で一番感銘を受ける場所となった。

一泊目は別府市内に宿泊。翌朝、バス車窓から見る大通りにはフェニックスが植えられていた。南国の雰囲気を出すために宮崎から持ってきて植えたとか。

別府地獄めぐり 海地獄
子供の頃に一度来た懐かしい地獄めぐりだ。海地獄だけしか見られないのが残念。海地獄は記憶どおり、そしてインターネットの写真どおりにコバルトブルーの池。ただ、記憶の中のものより小さい。子供の頃は自分が小さかったから、周りのスケールが大きく見えたということだろう。池へ行くには土産物売り場の建物を通り抜けるが、それより手前に左手に道があり、この先に赤い池がある。まるで血の池地獄だ。ひと地獄で二度オイシイとはこのこと。こっちの朱色の池はインターネットの写真で見たより大きかった。

湯の里
海地獄から少しバスで行った所。湯の花を作るための小屋を見学。ただそれだけ。

湯布院
これはなんにもない所に軽井沢銀座のように後から店を作っただけだ。洒落た感じの喫茶店や工芸品の店があるが、名所旧跡は何もない。こんなどうでもいい所でこともあろうに二時間近くも自由散策だ。今回の旅行で唯一損をしたと思う目的地。

臼杵(うすき)石仏
起伏のある岩場に数箇所に分かれて石仏群がある。前に一度来たことがあり、その時の印象としてはたいしたことがなかったので期待していなかった。その割には、改めて来てみると発見があった。ただ、前に来た時に唯一印象に残った大きな仏頭が、修復の結果石仏の体の上に載ってしまっていた。この大きな仏頭は土産物のデザインにも使われる印象的なもので、それが仏頭ではなく石仏群の一部になってしまったのは逆に残念だ。

竹田 岡城(おかじょう)跡
「荒城の月」のモデルとなった城跡として客寄せをしている。もっとも、少ない土産物屋のほとんどが閉まっており閑古鳥が鳴きまくる状態。山の峰に築城されていて、少し坂を上って城跡に入る。今では石垣しか残っていないが、城の敷地がじつに広いことに驚いた。もちろん広いのはここの城だけではないが、ここに来て足で歩いて実感した。大手門跡を通り、西の丸御殿跡を横目に暫く歩き、やがて三の丸跡、二の丸跡、本丸跡、その本丸跡の一番奥に金蔵跡がある。やはり金は一番奥に隠すのだな。しかし城はまだ先へ続いていた。金蔵跡は一番高い本丸の敷地の中でもまたほんの少し高くなっていて、その先は石垣の絶壁、しかし絶壁の先の低地はまだ城の敷地なのだ。ずっと先まで武家屋敷跡などがあるらしい。こういう細長い敷地をもつ、峰に沿って築城された城だ。

二泊目は阿蘇に泊まった。なんと外輪山の中だ。一方に外輪山を望み、他方に阿蘇五岳を望む。外輪山の中のカルデラの平地には結構田んぼがあるらしい。一夜明けてバスで出発、天気予報はアッサリと外れて、なんと雪が舞いだす。米塚はバスの反対側の窓からで、しかも雪と霧のためにほとんど見えなかった。

草千里
雪と霧の中の草千里となったが、雪の草千里を見る機会に恵まれた。雪の中、馬が放牧され、飼葉桶から餌を食べていた。

高千穂峡
気まぐれな天気で、雪の後は晴れて暑かったり、そうかと思うとバスから降りる頃になって雨が降りだしたりと定まらなかった。とはいえ高千穂峡では雨は上がっていた。高千穂峡は柱状節理の溶岩でできた渓谷、というのはインターネットで見たとおり。柱状節理は面白いが、渓谷の長さは予想より短かった。ぶらぶら歩いてもじきに端まで着いてしまう。とはいえ、絵になる場所はいくつかある。いちばん残念だったのは、子供の頃に来ていれば神話のもつ意味も感じられただろうに、今の私のとうが立った感性では何も感じられないということだ。なお、周囲は土産物屋が少しあるだけの田舎だ。

霊台橋
反対側の車窓からちらりと見ただけ。屈指の大きさをもつアーチ状石橋とのことで、たしかに橋は長く、そして石が風化し苔むして年代を感じさせる。

水前寺公園
バスは長々と山や盆地や田畑の中を走っていたが、ここに来てやっと町中へ出た。熊本市内だ。ここにもフェニックスが植えられている。水前寺公園は町中にあり、大きな池を中心に、その周囲に東海道五十三次を模したという庭が造られている。出発点の石橋が日本橋だということと、向こう側に見えるひときわ高い小山が富士山だということだけはわかる。あとは低めの小山が何をあらわしているのか、その先にだらだらと続く小道はどこに相当するのか、さっぱりわからない。庭園に植えてある木の中には面白い形に整えらたものがある。上が平らなのだ。一周して最後にたどり着く「古今伝授の間」という名の茶室は良い趣だ。

柳川
自由散策。川だかクリークだかを舟で行くというオプションも用意されていたがそれは却下。寒いから。かわりに御花(おはな)と呼ばれる立花家別邸を訪れる。ひな祭りのすぐ後だったので、ここでは豪華な雛壇とこの地に特有の「下げもん」という吊り飾りが見られるというので。別邸自体は洋館で日本の文化伝統とは関係ないが、立派な造り。ここは結婚披露宴会場も兼ねているらしく、正面に大きな雛壇がふたつも並ぶ座敷に食事の支度が出来ていたのだが、もうじき宴が始まるからとそこを追い出される前に運良くとても立派な雛壇と下げもんを見ることができた。

**** 覚書ここまで ****

あなたが体験した旅行で良かった所や、逆に良くなかった所など、情報があったら教えてください。


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