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最後の書籍補完計画 (01) [  昔の本(補完計画)]

吉と出るか凶と出るか、とにかく始めてしまった。前回の記事のタイトルが「最後のカセットテープ」云々だから、カセットテープじゃないのか?今度は本なのか?というタイトルの記事だが、もちろん事情がある。

私は今までに、自室にあるほとんどの(若いころの)書籍をデジタル化した。ある本はスキャナで、ある本はデジカメで。その行為に意味があるのかどうかは、正直言ってわからない。なぜなら、本を手に取ってページをめくるのと、PCのディプレイで見るのとは感じが全然違う。もしもこれが本の中に書かれた文字というコードを移すだけなら、紙の本であろうと液晶ディスプレイであろうと同じだろう。でも私は思い出を保存したいのだ。しかも、本を破壊しない程度に開いてデジタル化すると、綴じしろ付近はかなり困った見え方になる。それは容認しなければならない。では本自体をずっと保存すれば良いではないかとあなたは思うだろう。それが絶対に可能ならば、私はなにもデジタル化なんかしない。しかし私はいくつかの意味で社会に不安を抱いている。ここに私の個人的な不安を書きたくはないので、わかりやすい例えを出そう。仮にあなたの在宅中にあなたの家が火事になったら、あなたは自分の家から何を持ち出す?大量の書籍を持ち出すか?それはハッキリ言って無理だ。多すぎ、重すぎる。そんなものを持ち出そうとすれば煙に巻かれて死んでしまうぞ。でも、ハードディスクひとつなら持ち出せる。紙の本と同じではないが、せめて、幾分かのものが手元に残るではないか。

そういうわけで書籍のデジタル化をしてきたが、その代償として私の下半身はイカれてしまった。以前とは全然違い、歩くのが辛い。これは、私の家が和風で、テーブルも和風だから、作業するのに膝を折り曲げて座らねばならず、その恰好で冬場に毎日何時間も頑張り、そうやって血行が極度に悪くなった状態で急激に動かしたせいだ。複数回、ものすごく腫れあがった。もう二度と足をあのように悪化させてはならない。だから私は書籍のデジタル化をやめた。でも本当は、あと少しデジタル化したい本があった。そして何か月もの時が流れた。

前回の記事を書いた時、私はこう書いた。「人が生きるというのは、一日一日、一瞬一瞬を自分なりに無駄にせずに生きるということなのだから、今の私はその意味でよくない。せっかく与えられた生を有効活用せぬまま、その力が湧かないままに時を過ごしている。このままではいけないから、私は何かを始めなければならない。」私は自分で書いた文を自分で読み、書籍のデジタル化も何とかしなければならないと思った。それで今日、ためしに残りの本をスキャナでスキャンしようとした。

ところが、座ってすぐに私の足が異常を訴えた。これはいけない、と私は思った。この作業を続けると、私の足はとんでもないことになる。もう私の足は、ちょっと正座するだけでも引きつるほどに駄目になっているらしい。

前から私は考えていることがあった。親の部屋に、親のパソコンが置いてあるパソコン台がある。このパソコン台は、正座して使うものではなく、椅子に座って使うものだ。それを私の部屋まで引っぱってきた。とにかく私は正座が駄目だ。すぐさま足が引きつった。それならば、椅子に座って作業したらどうだろう。セッティングは済ませたが、試すのはこれからだ。

デジタル化を試みるのは、私が若いころに好きだったSF漫画の一部だ。今ではもう情熱が醒めて読まない。だからデジタル化などせずに放っておけば良いのかもしれない。でも社会に抱く不安が私をせきたてる。それに、私がしたいのは本の保存とは少し違う気がしてきた。さっきも少し書いたが、もしも文字というコードだけを保存したいなら、デジタル書籍として発売されているものを購入するという手もある。しかしそれで、私の手元に思い出が幾分かでも保存できるだろうか。そのデジタル書籍はシミひとつない綺麗なものだろうが、私が長年保管してきた本ではない。以前に復刻版が出た時に新宿の紀伊国屋書店に行って買ってきたその本ではない。私の思い出が染み込んでいない、まったく別の本だ。それでいいのか。

私の記憶ではSG企画の本が6冊あるはずだった。今回、開かずの物入れを開けて掃除機で埃を吸い取りつつ取り出してみると、記憶にない7冊目があった。昔の私は必死に買い求めたのだ。そう、ロックは私にとってすでに大事ではないが、昔の自分の頑張りは大事にしたい。だから今回デジタル化するのだ。でも1冊増えてしまった。作業の末に体が悪くならないことを願う。
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カセットテープのほうの作業や、仕事や、家事その他を並行してやらねばならないので、時間はかかるだろう。でも無事に完遂したいものだ。

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