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個人的仏教探索 (18) 仏教はなぜひきこもってムッツリで不眠症で非社交的な人間を求めるのか [個人的仏教探索]

仏教はなぜひきこもってムッツリで不眠症で非社交的な人間を求めるのか

比較的古い仏教経典、たとえば大パリニッバーナ経の中で、ブッダは修行僧が動作、談話、睡眠、社交に耽ることを戒めている。私は若い頃にこれを読んで以来、ずっと気になっていた。修行僧といえば出家修行者。仏教の教えを在家信者よりも厳密に守る人々だ。つまり仏教が正しいとみなす人の姿だ。それが、動作しないほうがいいらしい。アウトドア派はよろしくない。談話しないほうがいい。むっつりしていろ。睡眠しないほうがいい。不眠症奨励。社交的なのは良くない。非社交的になっていろ。もしもこれを実践すると、社会の中で生活しにくくなってしまう。人々は噂するだろう。「あそこの家に住んでいる人、滅多に見ないわよね。」「たまに見かけて話しかけても喋らないのよ。」「眼の下に隈があって、全然寝てないみたいな顔。なんか陰気よね。」「変な人じゃないといいけど。」「なんか怖いわね。」これが仏教の目指す理想の人間像だ。いいのか?これで?

当時若かった私は、仏教に献身するために修行僧の生活に近づこうとした。でもそれをするとひきこもってムッツリで不眠症で非社交的な人間になる。このへんで気を悪くする人がいるといけないから、言葉を付け足そう。ひきこもりは悪でない。ムッツリは悪でない。不眠症にはなりたくないものだが悪ではない。非社交的は悪でない(反社会的とは違う)。だから、これら個々の要素をもっている人は悪でない。では問題は何かというと、全世界規模で広まっている宗教の教祖がもっとも正しいとみなした修行者の姿がこれだというのが、今の現実社会とどうにも合わないのが困るのだ。

いったいブッダは、どうして動作を戒めるのか。どうして談話を戒めるのか。家に閉じこもっていて人と話ができない人間になることをなぜ奨励するのか。その理由がわからないまま、私はついにこの歳になってしまった。

そういえばブッダは修行僧に森に住めと言っている。これは俗世間の人との接触を避けよという意味だろう。これが上の4つのうちの3つ、つまり動作、談話、社交と同類の戒めだというのはわかる。動き回るなというのは俗世間の人間に会いに行くなということ。談話するなとは俗世間の人間と話し込んだり、僧同士でも俗世間のように煩悩だらけのおしゃべりにうつつをぬかすなということ。社交するなとはもちろん俗世間と必要以上に交わるなということ。そこまではわかるが、俗世間を否定してそこから離れると、私の生活は成り立たない。とくに当時未成年だった私は、親に育てられてようやく生きていた立場。家出(出家ではない)して一人どこかにひきこもりつつ収入もなく死んでゆく勇気はなかった。いや、未成年でなくても人と話さず非社交的だと仕事はなかなか得られないだろう(もちろん皆無とは言わないが)。結局これらは俗世間の人間には守れるはずのない戒めなのだ。

さらに不思議なのが残るひとつの戒め、できるだけ眠るなというものだ。これはものすごい戒めだ。当時のインドには人間の3大欲求などという考え方はなかったはずだから、眠るなと言えたのかもしれない。現代では、無理して眠らないのは危険だという考え方が主流だろう。俗世間に近づくなというのはまだわかるが、眠るなというのは理解しがたい。眠ることで人間の体は元気を取り戻し、病原菌等にたいする抵抗力をつけるのではないのか。俗世間は煩悩の塊かもしれない。でも睡眠は別に煩悩じゃないだろうに。ずっとそう思っていた。

この問題に答えが得られたのは2009年になってからだ。なんでも仏教の考え方では、煩悩の中に睡眠が含まれるのだそうだ。睡眠、つまり眠い状態は精神活動が不活発な状態だから、らしい。こうして私の数十年にわたる疑問は一応の解決をみた。最後に残った思いは、「ブッダが求めた修行僧の姿に近づくのは、在家信者にはとても無理だ」というものだった。
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