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個人的仏教探索 (15) 後期密教 [個人的仏教探索]

田中公明著「性と死の密教」内容理解のためのメモ その3 セクソロジー編の生起次第・究竟次第の部分を読む

後期密教系の五相成身観は、(私としては理解に苦しむが、)なぜだか受胎から出産までに人間の体が出来てゆくプロセスを、ブッダが成仏するプロセスである五相成身観と重ね合わせて考えたものになっている。私としては、「おいおい五相成身観は成仏の話だろ。どうして胎児の話になっちゃうんだよ。」と思わずにいられない。昔のインドの仏教徒は成仏そっちのけで胎児にご執心だったことになる。この後期密教系の五相成身観には2種類あり、「金剛頂経」系をもとにしたのが外(げ)の五相成身観で、「ヘーヴァジュラ・タントラ」をもとにしたのが内(ない)の五相成身観。著者は2つの違いを説明すべく比較しているが、私はもう食傷気味なので今は深入りしないでスルーしておく。そのかわりに、本当は「導入編」に書いてあったことをここで少し紹介する。それは、当時のインドがヒトの生命の誕生を輪廻転生説と結びつけて生理学的に解釈したものだ。つまり受胎から出産までに人間の体が出来てゆくプロセスのインド仏教流解釈であり、後期密教系の五相成身観を理解するための基礎知識となる。

人は死ぬと「中有」になる。最大で四十九日間。(おや、いわゆる四十九日というのはここから来ているのか?)中有はやがて未来の父母の性行為の場面に遭遇する。(なんじゃいそりゃ。)それを見て失神し、赤白二滴(経血と精液)の中に吸着される。父母の性行為をまのあたりにして父に愛欲を起こして母に嫉妬すると中有は女になり、母に愛欲を起こして父に嫉妬すると男になる。(なんかフロイトのエディプスコンプレックスを思い出したぞ。仏教ってこういうものだったっけ。)

この本は次に、「秘密集会タントラ」を取り上げる。これは時期的には今まで見てきた母タントラよりも早く成立したが、セクソロジーを論じるのに母タントラのほうが重要というわけで母タントラが先になった。秘密集会の根本タントラが成立した後もこのタントラは展開してゆき、やがて父タントラを形成する。根本タントラ成立以降に付加された教義は釈タントラや注釈書類に盛り込まれ、これらを解釈する学派としてとくに有名なジュニャーナパーダ流と聖者流が成立した。聖者流はタナトロジーのほうで取り上げられる予定であり、ここセクソロジーではジュニャーナパーダ流のほうを、その十二因縁の解釈に注目して取り上げる。

実はこの本は「導入編」ですでに一度、後期密教以前の仏教で十二因縁が輪廻転生説と結びつけられ解釈されるのを紹介している。しかし私はどうにも興味が湧かず、ここに記す気になれなかった。もともと別のものだったはずの輪廻転生プロセスと十二因縁が結び付けられても、「はぁ?何言ってるの?」と私は懐疑的にしかなれない。秘密集会タントラでもまた十二因縁が輪廻転生説と結びつけられるが、「これが無明に相当する」「これが行に相当する」と退屈に記してゆくのはご勘弁いただき、むしろ興味深い部分だけを「つまみ食い」させていただきたい。

曼荼羅の生起に先だって白・赤・青黒のオーン・アーハ・フーンの3種字が自身の口に入ると観想する。これら3種字は仏の身・口・意であり、毘盧遮那・阿弥陀・阿閦であり、そしてまた受胎の瞬間における精液・経血・ガンダルヴァ=死者の意識だ。以下、恐ろしく複雑なものが出てくるがすべて省略。せっかく秘密集会が話題になったというのに私自身が興味をもてないのは残念だ。なお、この部分に記されているものは生起次第というものらしい。少し前から生起次第・究竟次第という語が出ているが、著者は何度もそれを口にしながら、それが結局何なのかをはっきりと、つまり「語の定義」という形でわかりやすくは書いてくれない。察するところ、生起次第とは性的要素を導入した後期密教の曼荼羅の観想法、その実践階梯のことらしい。
(付記:生起次第の定義を、「まえがき」まで戻ってようやく見つけた。後期密教の実践は、聖典に説かれる尊格を視覚的に観想しこれとの一体化を目指す生起次第系と、生理学的方法によって人工的に神秘体験を作り出す究竟次第系に大別されるとある。)

次にこの本は究竟次第を見る。密教では、身体には重要なポイントが隠されており、それらを視覚化し、精神を集中して働きかければ特殊な効果が得られると考えた。その実践階梯が究竟次第らしい。まず究竟次第以前に、初めて身体論を導入したものとして大日経の「五字厳身観」がある。これは、地水火風空を象徴するア・ヴァ・ラ・ハ・カの5字を身体の5箇所に観想する。この5字に加持された行者の身体は大日如来の五輪塔となり、清浄な仏の身体に転化する。このような身体の中の特別な場所は、後期密教ではチャクラと呼ばれるようになる。「ヘーヴァジュラ・タントラ」では4つのチャクラが説かれ、それらは身体の臍・心臓・喉・頭頂にあり、そのうちの3つが如来の応身・法身・報身に対応する。チャクラは蓮華の形をしていて、花弁の数はチャクラによって異なる。また身体にはチャクラの他に脈管がある。脊髄のそばに1本、その左右に各1本。並行して走るこの3本は、上端・下端とチャクラの部分でだけ接合している。これが当時のインドの生理学説で、「四輪三脈」説という。脈管の中はそれぞれ精液、血液、その混合物が通る。(脊髄の脇を通って精液が頭まで運ばれちゃたまらないなあ。)

母タントラでは精液が「世俗の菩提心」と呼ばれ重視された。精液は快感の源であり、これを脈管の下端から次第に上のチャクラへと送る。それぞれのチャクラで得られる快感には名前が付けられ、4つ目の「倶生歓喜」を成就することが生理学的ヨーガの課題とされた。前述のように精液は菩提心なので、射精は菩提心の放棄でありタブーだった。行者は睡眠中の夢精すら許されなかった。なお、上述の快感が下から上へ行く説の他に、上から下へ降りるとする説もあった。

私は思う。よく言われることとして「後期密教の聖典は性的比喩になぞらえて真理を解き明かしたのだが、それを字義どおりに受け止めて修行と称して性行為を行う者が出てきた。」しかし過去の一時期に誤って行われていたそのような行為が現在も行われていると誤解してはならない、というのがある。しかしながら、実際に精液うんぬんの修行をすると書いているではないか。性的比喩になぞらえてではなく、まさしく性的ではないか。それに上野の「聖地チベット -ポタラ宮と天空の至宝-」で私が見たヤブユムの秘密仏は、ちゃんと交合していたぞ。もしも性的比喩になぞらえているだけならば、なぞらえている真理は別にあるわけで、大事なのはその真理のほうだから、わざわざ交合中の像まで作る必要はないぞ。これをどう考える?
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