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個人的仏教探索 (13) 後期密教 [個人的仏教探索]

田中公明著「性と死の密教」内容理解のためのメモ その1 導入編を読む

仏教はブッダが開いたものだが、その後ブッダ本来の教えに含まれていなかった要素を取り入れて複雑化した。しかしインドの仏教者たちは自分たちの教えがブッダの教えだと主張し、ブッダがどのような方法で悟りを開いたかをそれぞれの方法で解明しようとした。この本はその様々な仏教解釈を紹介しているから七面倒くさい。しかもそれだけではない。ただでさえ難解な古来の仏教解釈を扱う上に、この本の著者は「寄り道」をしたがる。つまり話がしばしば本筋から逸れてあちこちへ広がる。通り一遍の読書では本筋がどれで脇道がどれだかわからないことが多い。この本の大筋を書き出そうと試行錯誤する作業は、内容の理解という最終目的への道標になってくれると思う。

この本はまず「導入編」から始まる。これは原始仏教から後期密教の入口までについて、この本が論じる事柄に関連する部分を紹介し解説したものだ。

「大般涅槃経」では、ブッダは禅定の段階を上げてゆき、色界から無色界へ、さらにその最高処である非想非非想処から滅盡定に入った。しかしそこでは般涅槃せず、また禅定の段階を降りてゆき、最後には色界の四禅で般涅槃した。なぜこんな所で?

しかし般涅槃(死んだ時点)の話はこの本の導入にすぎず、本題は成仏(悟った時点)のほうだった。ゴータマは修業時代、非想非非想処を成就してもそれを涅槃に至る道ではないと考え、最後には四禅において悟りを開いた。またもや四禅だ。

ブッダは四禅を成就してもそれだけでは悟りを開くことはできなかった。四禅において十二因縁を順観・逆観して真理を観じた時点で初めて成仏した。(なぜこんな所で?という冒頭の興味深い疑問にたいする仏教の側からの明確な回答はないようだ。歴史上の解釈者の中には独自の解釈から答えを導き出す人もいれば、四禅以外でも可能だとする人もいるらしい。そんなわけでこの本でもこれ以上追究できず、せっかくの冒頭の問題提起がここまでになり、以後話が別の方へ行ってしまうのは残念だ。)

「金剛頂経」でも、悟りを開く前のブッダは四禅におけるアースパーナカ・サマーディだけでは悟りを開くことはできなかった。しかしこの経では彼は従来のように十二因縁を順観・逆観して悟りを開いたとせず、当時の如来から5段階の観想を教わり、それで悟りを開いたとした。この5段階の観想は後に「五相成身観」と呼ばれた。その観想では心の中に月輪(自性清浄心)が現れ、その上に金剛杵(悟りの象徴)が現れる。

「金剛頂経」では第1段階の観想として心の中におぼろげな月輪らしきものが現れ、第2段階としてそれが明確な月輪となる。しかしこれは後に修行の手順が複雑化するにつれて変化していった。「金剛頂経」より後に成立した「秘密相経」では、第2段階として第1段階のおぼろげな月輪の中に2つ目の月輪を観想する。しかも第1の月輪にはサンスクリット語の母音字、第2の月輪には子音字を観想する。この第2の月輪という意味ありげなものについてすぐには解説されず、読者は謎を引きずりながら次章セクソロジー編を待たなければならない。

以上で「導入編」が終わる。書名が示すように、これからセクソロジー(性科学)とタナトロジー(死生学)が順に展開される。
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