SSブログ

個人的仏教探索 (12) [個人的仏教探索]

「聖地チベット -ポタラ宮と天空の至宝-」に行ってきた。今日は私の感想を書かせてほしい。

全体の印象は2つだった。
1.展示物が思ったより小さい。
2.そのかわりに緻密だ。とくにタンカや曼荼羅が。

私個人は訪れてよかったと思っている。個々の展示物について少し書こう。

チャクラサンヴァラ父母仏立像タンカ
タンカの中でこれだけ特に大きい。でも色が付いていないのでわかりにくく、それでインパクトに欠ける。この点は前もって私が推測したとおりだ。

カーラチャクラ父母仏立像
思っていたより小さかった。ネット上にはヤマーンタカ父母仏立像の局部がちゃんと合体しているという書き込みがあったが、それはヤマーンタカに限ったことではない。カーラチャクラ父母仏立像も向かって左から見ると、ヤブとユムの間にわずかな隙間があり、その隙間に「ただの影として」だが、棒状のものが渡されているのが見える。合体を表現することは、チベット仏教の教えを再現する上で重要だったのではないだろうか。

グヒヤサマージャ坐像タンカ
私が上に「緻密だ」と書いたのは、たいてい細かい描き込みのことだが、このタンカは別の意味で緻密だ。この肌のグラデーションは写真では再現できない。

ヤマーンタカ父母仏立像
でかい!仏像の中でこれだけがデカい。でかいからか、細部はあまり表現されていない。面の配置は私が知っている図像と違う。

カーラチャクラ・マンダラ タンカ
すごく緻密だ。こういうのは、いちいち細部の拡大写真を載せて解説してくれるサイトがあると有難いのだが。中央にはちゃんとカーラチャクラのヤブユムが描かれている。

私は、可能なら展示物の周りを右回りに歩こうと思ったが、壁に面して展示された仏像やタンカの周りを右回りに歩くのは骨が折れる。なぜなら、しばしば人々の流れ(順路)に逆行するからだ。

展示場を出ると、お決まりのグッズ売り場だ。私は長年使ってきたマグカップにヒビが入ったので、もしも仏像が描かれたマグカップがあれば絶対買おうと思っていたが、それはなかった。書籍コーナーには立川武蔵編「チベット密教」や田中公明著「超密教 時輪タントラ」と共に、田中公明著「チベットの仏たち」があった。これは新刊で、先月出版されたばかりだ。中をパラパラとめくってみると、きわめて多数の尊格を各々数ページ(?このへんの細部は忘れた)で紹介し、ほとけの性格や図像の特徴を列挙している。「チベットほとけ図鑑」とも呼べる内容になっている。専門的な難しい研究発表ではないので、初心者が図像を見て、解説を読んで楽しめそうだ。



ここから先は私の個人的なメモ(日記)にすぎず、皆様にとっては得るところがないので、お読みになるのはここまででかまわない。

ネット上の書き込みから、入口付近で「守りがみ」とかいうおみくじ風のものが引けるとわかった。私としてはカーラチャクラとかヤマーンタカとか、仏教的な力のありそうな守り本尊が良いなと思っていたが、そんな思いが強いと逆にそうでないものが当たるのが世の中の常だということも知っていた。ダーキニーだったらご利益があるかもしれない反面喰い殺されるかもしれないから微妙だなと思いながら引いた。そうしたら、緑ターラーだった。後期密教の尊格としての奇抜さがない、もっともインパクトに欠けるほとけだ。だからネット上で見つけた時も、特に関心がなく情報を集めなかった。思えば今の私に強烈な力をもつ本尊は似合わない。仕事関係で人生色々あったから、心が弱くなっている。私は今、当面の目標として、自分の生き方を見つめ直さなければいけない。強い力はその後でしか望めない。

実は私は2階展示場へ上る直前で守りがみを引き忘れたことに気づき引き返したので、引いた守りがみを持って一気に2階展示場へ行くことになった。階段を上った所に立っていたのが緑ターラー立像だ。この像は美しい。足は少し開いてすっくと立つ力強さを見せるが、上半身の造形は宝石のように美しかった。そういえば私はここ何年も美しいものを見ていなかった。つまり、何を見ても美しいとは思わない。たとえば女性。若いころは女性を見ては美しいと思った。ところが今は美しく見えない。

美しいものが見えない人生は無味乾燥だ。でも現実に美しいものが存在しないのだから仕方がないと今まで思ってきた。だが今、目の前で緑ターラーが言っている。「人生の中で美しいものを探しなさい」と。もしも女性が私の目に相変わらず美しいと映らないならば、美の対象は女性でなくてもいい。宝石でもいい。絵画でもいい。私はまず、「美しいもの」を探す人生の旅をしよう。私にとって緑ターラーはきっとそのための守り本尊だ。

それから2階にある別の展示物を見て回った。ヤマーンタカ父母仏立像は巨大だったが、私に向けて何か言っている感じはしなかった。そりゃそうだ、このヤマーンタカは自分の妃といたしている最中ではないか。そういえば1階のカーラチャクラ父母仏立像もそうだった。ヤブとユムが向き合っているから、当然こっちを向いてはくれず、私に向かって何か言っている感じはしなかった。チベットの高僧は、このような「こっちを向いてくれない」本尊を前にして、どのように観想を行っていたのだろうか。

ヤブユムでないヤマーンタカ立像のほうは表情がある。水牛の顔に忿怒相と聞くと相当恐ろしいという先入観があるが、実際にまのあたりにすると、そうではない。喩えて言うと「顔は怖そうだが、そのゲジゲジ眉毛の下の目には親しみがあり、子分の世話を焼いてくれる、ごっついおやじさん」みたいな。このヤマーンタカは私に向かって「頑張れよ!」と言っていた。
コメント(0)  トラックバック(0) 

コメント 0

コメントの受付は締め切りました

トラックバック 0